1492年伊作島津家(鹿児島県日置市)に生まれる。
1569年加世田(鹿児島県加世田市)にて没。77歳
出身は、島津家の分家のひとつである伊作島津家である。
島津忠良が出生した当時の薩摩大隈地方(現在の鹿児島県)は、島津本家と複数の島津分家や、有力な国人衆(地域の実力者)が国内でせめぎあっていた。
また隣国に目を移すと、肥後国(熊本県)や日向国(宮崎県)にも相良氏や伊東氏といった外敵があり、現在の我々が知る大大名としての島津氏とは程遠い姿であったといえる。
島津忠良は幼い頃の9年間、寺に預けられていたが、父(下僕に殺害される)、祖父(一族の内紛で討死)が相次いで死亡したことにより還俗(げんぞく:いったん出家して僧になった者が僧をやめて一般人に戻ること)した。
そのとき、島津忠良の母が同じ島津氏の分家である相州島津家の当主と再婚したので、島津忠良は伊作家と相州家をあわせた領土の当主となった。
その後、息子の貴久を島津本家の養子として島津本家を継がせ、浮沈を繰り返しながらも何とか一族の内紛を治めて、戦国大名としての島津氏の礎を作り上げた。
島津忠良の、幼い頃は僧として寺にあり、一族の内紛により還俗し、当主となって内紛を治めるといった生い立ちは、越後の上杉謙信の生い立ちにも重なるものがある。
「お殿様のおぼっちゃん」ではなく、一般の僧として厳しい教育を受けた人間だからこそこのような難局を打開できたのであろうか?その辺りはいろいろと興味が尽きない。
ただ、島津忠良自身もそのようなことを自覚していたのであろうか?彼は人心の教育には非常に熱心で、息子や孫達(貴久の子ら)は自らが教育し、彼らはそれぞれ立派な戦国武将に成長している。
下の系図を見ていただきたい。島津忠良の子、孫になんと有名で有能な武将の多いことか。剛勇の士、知略の士、人心掌握の士・・・彼らそれぞれが立派に一国の主となれるほどの力量を持ちつつ、内紛を起こしていない。途中、豊臣政権の露骨な離反策を受けて少しグラつくものの、である。
それは一族の不毛な内戦を勝ち抜いた島津忠良の思いが、彼らに徹底して叩き込まれたからではないかと考えるのは私だけだろうか?
本ホームページのトップページに掲載してある「日新公いろは歌」は、彼の教えの真髄とも言えよう。
その「いろは歌」の中に以下の一節がある。「こころこそ いくさする身の命なれ 揃ふればいき 揃はねば死す」これはまさに彼の生きてきた人生を考えると真髄中の真髄ではなかろうか。
私は佐土原島津氏の文書に目を通すことが多いが、特に合戦の記述となると「戦は人の和が第一」といった記述が繰り返し出て来る。ここで言う佐土原島津氏は以下の系図の征久(日新公の孫)の分家である。
ちなみにこの佐土原島津氏は、江戸末期に薩英戦争で鹿児島の島津氏がイギリスと戦争した際には、3万石の小藩ながら宮崎県佐土原町から鹿児島まで数百人の援軍を出兵させている。
日新公の教えは300年後の江戸末期にも脈々と受け継がれていたのであろうか。まさに「こころこそ いくさする身の命なれ」である。
このように、「日新公いろは歌」の思想は、後世の島津氏全体に大きな影響を与えていることが分かる。
下の図を見ていただきたい。日新公(島津忠良)以下の血縁関係の図である。
正式な系図は、家の当主が誰かを主に書くので、血縁関係が分かり辛く感じるので、管理人が血縁関係図として書いた。兄弟関係は右側が長男である。
特に忠良の孫の世代(上から3段目)が、そうそうたる顔ぶれである。
彼らが働き盛りの頃が、島津氏が九州全域を手中にした頃であり、(禁断の”もしも”であるが)秀吉の九州征伐があと1年も遅ければ歴史はどうなっていたであろうか・・・
軽く紹介しよう。