大光寺四十二世 古月

1667年9月12日 日向国佐土原藩領にて生まれる
1751年5月25日 85歳で遷化した(亡くなった)
忌み名(生前の実名)は禅材。奚疑と号する。

古月和尚の人望と、いろはくどきについて

東に白隠あり西に古月あり

古月和尚は現在の宮崎県佐土原町出身の稀代の名僧で、記録によると、1750年頃には「東に白隠あり西に古月あり」といわれる程に、全国に広くその名が知れわたる名僧であったという。
また、古月はいわゆる「近寄りがたい天才」というタイプではなかったようで、いろいろなエピソードが彼の人柄の良さを今に伝えている。

早速ここでは彼の人柄の良さをうかがい知ることができるエピソードを紹介する。
彼が佐土原から備後(広島県)、更に甲州(山梨県)へ旅をした道中のことである。
道中では、宿場にさしかかると、常に郵伝(=その宿場から次の宿場までの間の荷物持ち役)が彼を待っていて同行し、さらに到着した次の宿場でも郵伝が待っており、彼に同行するという状態だったという。
また通る村々では、僧侶や一般人を問わず、多くの老若男女が彼を歓迎するために集まって、彼を迎え入れたという。
甲州からの帰りに立ち寄った江戸では、佐土原藩主 島津惟久のもとに1ヶ月滞在した。
その間、教えを求める者が彼のもとに昼夜を問わず訪れたが、彼はその訪れた者全員に嫌な顔ひとつせずに丁寧な問答をしたという。
その後も古月は薩摩藩主 島津宗保、長州藩主 毛利宗広、筑後久留米藩主 有馬頼■(■は"ギョウニンベンに童"の字)らに丁重に招かれて出向き、彼らの領国内で寺を開山(創設)したり、法会を執り行ったりしている。
彼が没したのも招かれて訪れていた久留米(福岡県久留米市)である。

メディアが発達している現代なら、このようなアイドル級の扱いも分からなくもないが、新聞もテレビもインターネットもない時代に、当時の支配階級から一般民衆までこれほどの認知度と尊敬を集める彼には、ただ驚くばかりである。

古月和尚の「伊呂波(いろは)くどき」

彼は、いろはにほへと・・・の順に人生訓を記した「伊呂波(いろは)くどき」を書き残している。この「伊呂波くどき」は盆踊りという形で、現在でも宮崎県佐土原町の一部地域に受け継がれている。
ちなみに管理人も小学校の運動会で、このいろはくどきを踊った記憶がある・・・。
唄い出しは、
国は日向の佐土原城下 少し下りて佐賀利の村に
古月禅師という上人が おときなされし いろはのくどき
という唄い出しで始まり、
「(い)幼けなきをば愛して通せ (ろ)老を敬い無礼をするな」といった感じで、「いろはにほへと」順の人生訓が綴られる。
今、このいろはくどきを「人生訓」と書いたが、内容は非常に庶民的で、少しも気取った内容ではない。
たとえば、「隣り近所に不通をするな 近き中にも又垣をせよ」という一節などは当時の農村生活に密着したアドバイスでろう。
つまり、みなと仲良く。しかしどんなに仲が良くても争いごとを避けるために家や田畑の境界にはきちんと柵をしなさい(=仲良しでも他人としてわきまえる一線を持ちなさい。"なあなあ"ではいけません)という内容である。
他人との関係が難しくなったと言われる現代に生きる我々にも言える人生訓であろう。
詳しくはトップページの「今週の古月和尚いろはくどき」を見てください。いろは順の週替わりで「いろはくどき」を掲載しております。

古月和尚の生い立ち

出生地はもちろん佐土原

1667年9月12日 日向国佐土原藩領内の佐賀利村の金丸氏に生まれた。佐賀利村は、現在の宮崎県宮崎郡佐土原町(2006年1月1日から宮崎市と合併)の一ツ瀬川沿いで、一ツ瀬橋から日向大橋の中間あたりの地域である。

佐土原の天才少年?

幼い頃から聡明で、両親の期待を一身に背負い、佐賀利村の瑞光院の住職であった宗密のもとで勉学を習った。7歳のときはすでにその非凡さを認められ、松巌寺の住持であった一道の弟子となった。この頃の古月は、「無邪気に遊ぶ同年代の子供達とは異なり常に礼儀正しく振舞う」感心な子供であったという記録が残っている。10歳にして剃髪して(頭を丸めて)僧になった。

恩師の死と諸国での修業

21歳の時、幼い頃の古月を見出した瑞光院の宗密が亡くなると、一念発起して京都に上り仏典を学び、遠くは江戸や、東北地方まで足を伸ばして諸国を歴遊して学んだ。
1695年に師である一道が亡くなったことを知ると佐土原に戻り、しばらく松巌寺に留まったが、また諸国の高名な僧のもとを巡る旅に出た。

佐土原 大光寺の住持となる

1704年、38歳で大光寺四十二世の住持となった。(大光寺は14世紀中頃に現在の宮崎県宮崎郡佐土原町上田島に創立された、「国指定重要文化財」を持つ由緒正しいお寺です)

久留米にて遷化す

1751年、84歳になっていた古月は佐土原の自得寺にあり、そこを人生の終わりの地とするつもりであったと考えられる。
しかし、筑後久留米藩主 有馬頼■(■は"ギョウニンベンに童"の字)の再三の願いを断りきれず、84歳の体で久留米(福岡県)に旅立つ。この行動も古月の人柄をよくあらわしている。
84歳の老体で久留米に到着した古月を迎えた久留米の人々はひたすら感激して、古月の周りには常に人が集まり、彼の一言一言に感激・感嘆するような状態であったという。
また人々は、古月の書いたものならばどんなに小さな布切れでも「家宝にしたい」と持って帰るほどの加熱ぶりだったという。
そんな久留米での生活の中、1751年5月25日に遷化した。
死した古月は、分骨として生まれ故郷の佐土原に帰った。享年84歳。

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