管理人 日向守(ひゅうがのかみ)

はじめまして。そして佐土原や宮崎の歴史に興味を持っていただいてありがとうございます。
佐土原城 遠侍間(さどわらじょう とおざむらいのま)の管理人の「日向守(ひゅうがのかみ)」です。
遠侍間とおざむらいのま」とは、佐土原城内に実際に存在した部屋の名前で、城を警護する侍たちが、24時間体制で待機していた部屋のことです。
管理人が想像するに、時代劇でよく見る、「ものども!!であえであえー」のかけ声の後に、ワラワラっと出て来る人たちがスタンバイしている部屋です(←ホントか?)。
・・・・すみません、「であえであえー」の件は想像です。真面目に確認してません・・・。でも、佐土原藩の侍たちが24時間体制で待機していたことは事実らしいです。確認済みです。
ちなみにこの「遠侍間」の隣には「槍間やりのま」という名前の、武器庫部屋があったらしいです。
待機している侍たちは、「であえであえー」のかけ声で一斉に隣部屋の「槍間」に駆け込んで、武器を手にしてワラワラっと出てくるのでしょうね・・・想像ですが(笑)。
←奇跡の一枚(笑)・・・


2006年1月 平成の大合併!佐土原、島津領に帰る?

佐土原町が宮崎市と合併したことを、歴史好きはこう曲解する(笑)

2006年1月1日をもって佐土原町は宮崎市と合併しました。やはり佐土原で育った者としては寂しいものがあります。
しかし、よく考えてみてください!今回の合併は高岡町・田野町・佐土原町・宮崎市の合併です。
ここで「おっ!!」とひらめいた方、あなたは「島津マニア黒帯」です。
そうです。高岡町は旧薩摩藩領、佐土原と同じく島津領なのです。
つまりその高岡町と佐土原町が一緒になることによって、何と薩摩藩領と佐土原藩領が地続きに!!
秀吉の九州征伐に破れて以来の宿願!!天正年間から400年後の平成になって成就?!
リメンバー根白坂!岩屋城がもう少し早く陥ちていればぁっ・・・!
家久(中務)公もさぞお喜びでしょう・・・か?(笑)











領域は概略です


ところで、佐土原・児湯地区は歴史の表舞台なんです!

佐土原城を知っていますか?

佐土原城を知っていますか?佐土原に住んでいる方に聞いてもあまり知る人は多くありません。
(某戦国時代シミュレーションゲームをやっている方々のほうが知っているかもしれませんね。2006年に出たPS2版にもしっかり登場してますね。)
佐土原城は、現在の西佐土原(佐土原小学校)の辺りにありました。
(↑佐土原在住のA様のご指摘により、"那珂小学校の辺りにありました"という誤記に気づき、修正しました。A様に感謝!!)
また、佐土原は中近世に、伊東氏、島津氏に庇護されて文化が栄えた地域でした。
今でも佐土原には、国の重要文化財が4つ存在します。(大光寺だいこうじの仏像と墨蹟、巨田こた神社の神殿[棟札むなふだつき]と佐土原城)

佐土原に大仏があったのを知っていますか?

1577年末まで、佐土原城は伊東氏の領地でした。この伊東氏の当主であった伊東義祐いとうよしすけは京都から仏師ぶっし(→仏像を作る職人)を招いて佐土原に大仏を鋳た(作った)そうです。ちょうど現在の那珂小学校の近くあたりであったと言われています。
また、金柏きんぱく寺(日向纂記では金栢寺とあり)など、京都に似せた街づくりを進めていたという記録も残っています。祇園などと言う地名はその名残だとか・・・。
(↑きんぱくじの漢字につきましても、A様のご指摘により”金箔寺”から修正いたしました。ありがとうございました。)
ただ、残念なことにその後の騒乱により、「佐土原大仏」はいつの間にかなくなっています。詳しくは調べていないので分かりません。伊東氏が日向国から追われた時の混乱で、燃やされたのかもしれません。

佐土原城には金のシャチホコがあったのを知っていますか?

佐土原城は南九州で唯一、天守閣てんしゅかくを持っていた城でした。
これは慶長十六年から17年(1611〜1612年)にかけて、二代藩主島津忠興によって造営されたものです。
これについては、佐土原城の歴史をご覧ください。
発掘調査により、金のシャチホコの破片も発掘現場から出土しています。
このようなことから、佐土原城は国指定となり、現在復元作業の準備が進んでいます。

それでも低い佐土原城の認知度

それなのに佐土原城は、同じ宮崎県の飫肥おび城ほどに地域の認知度が高くありません。
どうしてでしょう?NHKの朝ドラに取り上げられていないから?いえいえ違います。
その理由の一つとして考えられるのは、明治維新の直前に佐土原にあった佐土原城を取り壊して、現在の広瀬(石崎川の近く)に新しい城を建てて引っ越したことです。
さらに悪いことに、広瀬に城を移した直後に明治維新となり、新しい広瀬の城も取り壊されてしまいました。結局、佐土原にはどこにも城が残っていません。
また、佐土原城の周りに住んでいた佐土原藩の武士をはじめとする町の住人の方々も、お城と一緒に広瀬に移り住んでしまったために、昔から城があった佐土原の近辺の地域社会も広瀬に移ってしまい、昔の佐土原城は忘れ去られてしまったようです。
また、2005年12月をもって、市町村としての佐土原町がなくなりました。最悪の場合、「佐土原の歴史や文化」は、「佐土原町」と共に宮崎市に埋没して消えてしまうかもしれません。

うらやましいです。飫肥町・・・

その点では、数年前のNHK朝の連ドラに登場した飫肥(飫肥城を中心とする古い城下町)は、地元の方の地域の歴史に対する関心が高く、素晴らしいと思います。そのように地元の人が誇りを持っている「わがまち」があることは、とてもうらやましいことだと思います。
私は、現在は仕事の関係で関東に住んでいますが、自分の原点としての宮崎・佐土原の文化に愛着と誇りを持っています。たまに職場でふざけて宮崎弁でまくし立て、相手を混乱させたりして面白がっています・・・(笑)

宮崎市の文化財保護行政に期待します。いや、頼みます。ホントに(笑)

ところで、宮崎市と佐土原町の合併の計画書には、佐土原地区を文化と歴史の地区と位置づけているような記述がありました。ぜひともその方針で文化財保護行政も進めてもらいたいものです。
せっかく佐土原城が国指定を受けることが決まったのですし、歴史や文化は一度失われると二度と戻りませんから・・・。(何もハコモノ行政で散財してくださいとは言ってませんよ。念のため)
また、これを機会に、佐土原の人が自分の地域の歴史や文化に目を向けてもらえるようになってくれれば良いなと考えています。(行政が動く前に、人々のこの姿勢が前提でしょうか・・・)
ちなみに、佐土原城跡には現在、佐土原城址資料館「鶴松かくしょう館」が建てられています。
ここのページを見た方々の間で佐土原城や、周辺(宮崎・児湯)地域の歴史に興味をもたれた方は、展示会などに足を運ばれてみては如何でしょうか?
当ホームページでも鶴松館のイベントを随時ご紹介しております。

2011年10月吉日 日向守ひゅうがのかみ


管理人 日向守ひゅうがのかみ

宮崎県生まれ、宮崎県育ち。骨の髄から九州人。
産湯の代わりに芋焼酎のお湯割りで体を洗われ、母乳の代わりにとんこつスープを飲み、朝な夕なに「くじらようかん」を食べてすくすくと育つ(嘘)。
今は心ならずも関東暮らし。最近帰省してびっくりしたのは佐土原駅前の激変振り!!
我らが心のオアシス、おもちゃの○ノキオはいずこ!!
最近の焼酎、宮崎、鹿児島料理ブームにより東京でもいろいろと食べられて少し満足。
新宿に「冷凍くじらようかん」があるくらいなので、冷凍チーズ饅頭もありそうだ?

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