島津家久、義久の許しを得て串木野を出発する

天正三年 二月七日 当主の島津義久に出発の許しを得る

<以下訳文>
天正三年(1575年)二月は、薩摩さつま(鹿児島)・大隈おおすみ(鹿児島)・日向(宮崎)にてしばらく戦乱がなかった時期であった。
この頃、島津義久は家臣の忠節ちゅうせつ(=忠誠心)を集め、三州(薩摩・大隈・日向)を治めていたのだが、これはひとえに神仏のご加護によるものであった。
島津家久は、この神仏のご加護にお礼をする為に、いろいろな神様や、愛宕山、そのほか仏閣に参拝することを決めた。
天正三年二月七日、島津家久は兄であり、島津家当主の島津義久にその旨を伝えて、しばらく休みをとる許可を得た。

二月八日 旅支度!

島津家久は島津義久の元を去り、串木野くしきのに帰った。
そして串木野において、二月二十日の出発にむけて旅行の支度を始めた。

島津家久 往路鹿児島

二月二十日 串木野くしきの城を出発

正午に、串木野の町(鹿児島県いちき串木野市)を出発し、郊外に仮の宿舎を構え、年老いた母親や妻子を呼び寄せて出発の宴を開いた。
出発後、薩摩山を下ったところに菱刈衆ひしかりしゅうの家があった。
(注釈)××衆と言う言葉は、××地域に住む人たちという意味。
隈城衆くまのじょうしゅうの家では新納久饒にいろひさあつから脇差わきざし(短い刀)を預かった。
そこから開聞かいもんの渡り場(鹿児島県薩摩川内さつませんだい市の大平橋の西側と思われる)に到着すると、平佐衆ひらさしゅうが酒を持ってきた。
すぐに川舟数隻で川内せんだい川を渡って、新田にった神社(鹿児島県薩摩川内市)の鳥居の前に上陸すると、東郷衆とうごうしゅうがたくさんの料理が入った籠を持って来て、酒宴を開いてくれた。
その後新田にった神社に参詣し、神前で三献(正式な作法により酒を飲むこと)をいただいた。
その後、正宮寺に立ち寄り、酒を少しいただいた。
新田神社の鳥居の前から川舟に乗り、酒の酔いに任せて、歌などをぎんじながら川を下った。
高江たかえ(鹿児島県薩摩川内市高江町)では、山田新介(有信)が用意した休憩所にてお茶漬けを食べながら酒を少し飲んだ。
その日は、久見崎ぐみざき(鹿児島県薩摩川内市久見崎町)の港の膳介という者の家に宿泊した。
そこに届けられる酒やさかな(=おつまみ)があまりにも多かったので、記述は省略する。
(家久君上京日記)


管理人コメント

旅支度に10日ほどかかってますね。同行する家臣の人選や、留守番役の役割分担、各方面への挨拶、返答などに時間がかかったものと考えられます。
また、出発後も色々な方面から見送りを受けたようです。家久本人が書ききれない(『記述を省略する』)ほど酒やさかな(=おつまみ)が届けられるなんて、さすが家久君いえひさぎみ!人気者ですねぇ♥!!
それにしても、この日は何回飲み会をしたのでしょうか?さすの家久君も、川内川を船で下る時には酔っ払ってしまっていたようです。
それを見越して?家久君にお茶漬けをお出しした山田有信はさすが『デキる男』ですねぇ!!
やはり家老を務める程の器量の人間は気配りもできます!!そんな大将のためにこそ家臣も奮戦するんでしょうねぇ。

デキる男 山田有信について(蛇足)

蛇足ですが、山田有信はこの3年後に大友氏と戦った高城合戦において、島津家久と共に3000の兵を率いて高城に篭城し、数万の大友勢の波状攻撃を撃退するという第一級の戦功を上げています。
また、豊臣秀吉の九州征伐の際も、10万を越える豊臣勢に囲まれながら再び高城に篭城し、島津家が降伏するまで持ちこたえた男です。
そんな彼の葬儀の時の逸話として、島津義久が彼の棺桶を裸足で担いで生前の功労に報いたという話も残っています。

さらに蛇足ですが、私はこの「裸足で」という部分に泣かせる要素を感じます。
イエズス会の宣教師のフロイスの記録によると、当時の「日本人は、自分より身分の高い者の前に参上するときには、礼儀作法として履き物を脱ぐ」という記述があります。
山田有信の棺を「裸足で」担いだ島津義久は、(家臣である)山田有信に対して最大限の敬意を表したと考えられるのです。これが泣かずにいられますか?(泣笑)

佐土原衆のひとりごと 難易度★

「まこ飲んかたのおいぃもんじゃ!」
日本語訳(笑):本当に飲み会が多いものだ!
最初の「まこ」は「まことに」の意味です。「まこつ」「まっこ」なども同義語です。
「飲んかた」とは「飲み会」のことです。「飲みかた」も同義語です。
「おいい」は「多い」の意味です。



佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間 リンク

佐土原城 遠侍間 -家久君上京日記- 佐土原城 遠侍間 -家久君上京日記-