島津家久、ついに島津氏勢力圏外の肥後(熊本)へ!

天正三年 二月二十一日 久見崎から出航する

午前十時に、久見崎ぐみざき(鹿児島県薩摩川内市久見崎町)を出発。
樺山玄佐殿から歌が届けられたので、返歌を詠んでお返しした。
船宿ふなやどにて酒宴が行われ、その日の午後二時に阿久根あくね(鹿児島県阿久根市)に到着した。
阿久根の別当べっとうの屋敷に宿泊していると、松本長門介まつもとながとのすけの息子が酒を持ってきた。
阿久根地頭じとうの阿久根播磨守、牧山という者が金剛鈴こんごうれい(修行僧が持って歩く鈴)を持ってやってきた。

天正三年 二月二十二日 悪天候で足止め→暇をもてあまして宴会(笑)

風向きが悪く、船出ができなかった。
このまま何もしないのもどうかということになったので、別枝越後守などと話し合って、舞を一折ひとさし舞った。
その晩に、松本長門介から招待を受けたので、松本長門介宅にて酒宴を行った。
松本長門介から馬を贈られたので、こちらからもお礼に馬を与えた。
酒宴の後、島津義虎しまづよしとらの私宅に立ち寄って夜更けまで酒宴を行った。

天正三年 二月二十三日 無事出航・・・でも船の中で宴会(笑)

島津義虎しまづよしとらへ馬を与えて、午前十時に出航した。
島津義虎も黒之瀬戸くろのせと(鹿児島県阿久根市脇本 黒之瀬戸大橋の付近)まで船に同乗し、酒宴を行った。島津義虎からは、脇差わきざし(短い刀)と道服どうぶく(修行僧の服)を贈られた。
この日のうちに田浦たのうら(熊本県葦北郡芦北町田浦町)というところに到着した。

天正三年 二月二十四日 田浦(熊本県葦北郡芦北町田浦町)に到着し、すぐに出航

田浦の町に入った後に、午後六時に出航した。

島津家久 往路鹿児島

管理人コメント

2月20日に串木野を出発して、4日後の2月24日にようやく現在の鹿児島県を抜けて、熊本県に入ってます。
それにしても、さすが人気者の家久公!。あちこちで歓待を受けて「飲み会地獄」の様相です。
特に、現在の鹿児島県と熊本県の県境のあたりを領地としていた島津義虎と飲んでますね。普通だと、ちょっと体調を崩しそうです(苦笑)。
また、阿久根港にて、ヒマを持て余して「舞」を舞う(おそらく能楽です)という、文化人の一面も見せています。家久公は決して「猪武者」ではありません(笑)。
さて、贈り物の内容が修行僧関連グッズなのに気がついた方も多いのではないでしょうか?
これは、どうやら島津家久の一行が修行僧の服装をして旅をしているみたいだからだと考えられます。
修行僧の格好をして旅をするのは、おそらく道中の安全のためです。
当時の文献を読むと、仏教関係者(お坊さん、修行僧など)は戦闘状態にある地域でも、比較的自由に移動できたようだからです。
そもそも、家久の一行は伊勢神宮にお参りに行く「巡礼者」なので、「宗教関係者」と言えなくもないのですが・・・。
さてさて、ついに肥後(現在の熊本県)に入った家久公、ここからは「他国」を行く旅です。

佐土原衆のひとりごと 難易度★★

「乗っちょっとはどんげな船じゃろかい?」
日本語訳(笑):乗っているのは、どんな船なんだろう?
この後の記述を読めばわかるのですが、島津家久の一行は、なんと100人くらいの大人数のようです。
そんな人数が、どんな船に、何隻に分乗して旅していたのか、興味がわきます・・・。近距離というか、内海の旅なのでそんなに大きな船ではないと想像しますが・・・
蛇足ですが、佐土原衆は、いわゆる標準語の『こんな、そんな、あんな、どんな』が、
『こんげ(な)、そんげ(な)、あんげ(な)、どんげ(な)』となまります・・・。
さぁ、皆さんも宮崎(県央)での農産物買い付けのビジネスシーンで華麗に使いこなしましょう。



佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間 リンク

佐土原城 遠侍間 -家久君上京日記- 佐土原城 遠侍間 -家久君上京日記- 佐土原城 遠侍間 -家久君上京日記-