島津家久、山鹿温泉にて「まったり」する(笑)

天正三年 二月二十五日 肥後の松橋に上陸

松橋まつばせという港に上陸した。(熊本県宇城市松橋町)
ここから徒歩にて進むと、左手に宇土顕孝の城が見えた。(宇土城 熊本県宇土市の西岡台あたり)
更に進むと、右手に隈庄城があった。(熊本市城南町隈庄あたり)
次に廻江まいのえという渡り場にて渡り賃を取られた。(熊本市富合町廻江)
さらに、大渡(熊本市川尻)、川尻(熊本市川尻)にも関所が設けられており、通行料を取られた。
その日は、廣瀬右京亮の子孫である、三郎という者の家に一泊した。

島津家久 往路熊本

天正三年 二月二十六日 隈本城を見る

午前八時に出発。
城殿の城を見た。(隈本くまもと城 城主は城親冬じょうちかふゆ 熊本市古城町)
午後二時には鹿子木かのこぎという町に入った。(熊本市鹿子木町)
そこで、 大野治部太輔(忠宗)殿が追いついてきたので、合流してしばらく一緒に歩いた。
その後、大野殿とはすぐに別の方向へ別れた。(大野忠宗は島津家の武将)
更に進むと、右手に合志殿の城が見えた。(合志こうし城 熊本県合志市上庄)
また、赤星殿の城が遠くに見えた。(菊池きくち城 城主は赤星統家あかほしむねいえか? 熊本県菊池市隈府)
その日は清水左近というの者の家に宿泊した。

天正三年 二月二十七日 山鹿やまが温泉でまったりする(笑)

午前八時に出発。
今藤という村を通過すると、千破(熊本市千葉城町のことと思われる)の指導者である木場三介、そのしゅうとの藤左衛門などに出会った。
更に進んで、山鹿やまがという町に着いた。(熊本県山鹿市)
そこでは町中に温泉がわいており、温泉につかった後に更に進んだ。

島津家久 往路熊本

管理人コメント

偵察行動?

家久公は、肥後のいろいろな城を見て歩いています。本当の行程は、もっと各城の近くを通るために蛇行していたかもしれません。
この文献からは、島津家久の一行が諸国の状況の偵察をしながら旅をしている雰囲気が感じ取れます。家久公はこうやって武将としての見識を高めていったのでしょう・・・
また、他国である肥後で島津家 重臣じゅうしん(身分が高い武将)の大野忠宗に出会って、別方向へ分かれてます。このことから、当時の重臣クラスの人間も結構他国へ出かけていたことが分かります。
考えてみれば、当時はインターネットやメールなどありませんので、情報を得たり、誰かと交渉するためには自分で行くしかなかったのだと想像できます。
また、いつ他国の勢力と合戦になるか分からない時代です。日ごろから他国の道、地理的な情報、政治の状態などを探っていたんですね。カーナビなんて無いので、軍勢率いて道に迷ったらシャレになりません・・・
ちなみに、家久公が見た隈本くまもと城は、後に加藤清正が作る熊本城とは別の城です。場所は、加藤清正の熊本城のすぐ隣あたりだといわれています。

関所だらけの肥後ひごにイライラ・・・

ところで、肥後(熊本県)に入ったとたんに「関所」で「通行料」を取られたという記述が出てきたことにお気づきですか?
実は、当時の肥後(熊本県)や筑後(福岡県の南部)は「地侍じざむらい」と呼ばれる小領主(狭い地域の中のボス)が乱立し、連合している状況でした。
この地侍たちは広い田畑を持ちませんので、通行料が彼らの大事な収入源のひとつでした。
つまり当時の地侍は、自分の領地の境界に関所を作って、そこを通る旅人から通行料を徴収していたのです。
こんな関所が、肥後の国内にたくさんあったと思われます。
特に2月25日の記述に出てくる、大渡の関所と川尻の関所の間の距離は、たった200〜300メートルくらいです!!
当時の緑川は、大渡と川尻の間にも支流が流れていたと思われますので、緑川のこっち側とあっち側に関所があって、それぞれ通行料を取ってたんですねぇ(苦笑)・・・。
むぅ、旅人からすると、「カツアゲ」以外の何ものでもない(笑)・・・
家久公は、まだこの時(2月25日から27日)は、「関所があった」「通行料を取られた」くらいの『ちょっと不満気味』なテンションですが、この数日後に、ついに関所の多さと面倒臭さにブチギレして大暴れしてしまいます!(爆笑)
その島津家久武勇伝は次回のお楽しみ・・・。



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