今日は朝からあいにくの悪天候だったので出発を見合わせていたが、ようやく午後二時に晴れたので出発した。
南の関(熊本県玉名郡南関町)にて、一旦足止めされた。
その後、私を含む50名ほどは通過が許されたが、残りの5,60名に通過の許可が下りずに途方に暮れてしまった。
しかし、南覚坊(旅の案内者の僧侶と思われる)が知恵をめぐらせていろいろと取り計らってくれて通過することができた。
その日は北の関(福岡県みやま市山川町北関)の小市別当の家に一泊した。
関所を避けて通るために、まだ暗い時間に宿を出発した。
5,6箇所の関所を避けながら迂回して進むと、右手に蒲池殿の城があった。(柳川城 城主は蒲池鎮漣か? 福岡県柳川市本城町)
更に進むと、また関所があったので、そこは普通に通過しようとした。
しかし、その関所の番人の取調べ(いわゆる入国審査)が必要以上に厳しく、簡単には通過できそうになかった。
そうしていると、関所の番人の理不尽な取調べに我慢できなくなった同行の者達が、関所の番人をボコボコにして、我々は無事に(?)関所を通過した。
そこから筑後の最町(原文のまま。現在地名不明)を通って高良山(福岡県久留米市)の円輪坊という宿坊に一泊した。
島津家久の一行は南の関を出て、ついに肥後国(熊本県)から筑後国(福岡県南部)に入っています。
この時期、筑後国も前述の肥後国と同じように、多くの勢力が乱立していました。
おそらく、肥後同様に関所だらけだったと考えられます。
しかし肥後国(北部)とは違い、筑後国には柳川城を本拠として、30万石を有する蒲池氏という大勢力が存在していました。
実は、2月28日に宿泊した北の関あたりからが、その蒲池氏の支配地域です。
そして、その蒲池氏を筆頭に、筑後の諸勢力は大友氏の支配下に入っていました。
大友氏は、島津氏が長年戦っている伊東氏と縁戚関係にあったので、島津家久一行にとって筑後国、特に蒲池氏は危険な存在と思われます。
どうやら、島津家久一行も「要注意」と感じていたらしく、家久公は、翌日の2月29日には関所を避けるためには暗いうちに出発しています。
おそらく通常の街道を通らずに、暗いうちに北の関の西側にある障子ヶ岳を越えて、朝の有明海の海岸沿いを歩いて行ったと考えられます。
これは関所を避けて歩いた後に「柳川城が右手に見えた」という記述から推測されます。
で、最後に関所破りの件です。
家久公の一行は100人ちょっと位ですが、島津家配下の中から厳選された精鋭部隊の100人だったと考えられます。
島津家の当主の弟を、他国で守る為に選ばれる人たちですから、それはそれは豪傑たちが揃っていたはずです。
そんな100人を、そこいらの関所の番をやっている下っ端の番人(10人もいないでしょう)が止められるわけありませんよね・・・。
番人さん、相手が悪かったな・・・可愛そうに・・・(苦笑)。どんな風にボコボコにされたんでしょうね?
「殺した」「斬った」とは書いてないので、山伏が持っている杖でドカドカっとやっつけて、気絶している間に通過したんでしょうかね?
うーん、ワイルド&無法地帯・・・。
ここで「指名手配でお尋ね者にならないのか?」と考えるのが、現代の統一国家日本に生きる我々の常識です。
しかしこの時代は、その関所を支配する小勢力の領地から出れば「外国」です。境界を越えてまで、めったに追って来ません。
この観点からも、領土が大きい(=なかなか領地外へ逃げられない)蒲池氏の支配地域内では、おとなしくしていた(関所をよけて通った)んでしょうね。
いやー、この100人なら筑後の一番小さい勢力の本拠地くらい奇襲して陥落させられそうですね・・・(笑)。
ちなみに、この蒲池氏は3年後の高城の合戦には大友方として3000の兵で参戦しています。
そして、島津家久らがたてこもる高城(宮崎県木城町)を包囲・攻撃しますが敗退し、大将の蒲池鑑盛が高城付近で討ち死にしてしまいます。
この時代、本当に誰といつ戦うことになるか分からない時代だったんですね。
次の回では、家久公は、その高城の合戦に関する運命の人に出会います。
「棒でひったたいたっちゃろが」
日本語訳(笑):棒で、ぶったたいたんでしょ
佐土原衆は、強調の「ぶったたく」などが、「ひったたく」(「ぶ」が「ひ」)となります。
「ひっ殺す」なども同様です。
応用で、「ひんねなかす」日本語訳:持っていた物をなくすなどもあります。