島津家久、運命の出会いを果たす!!♥

天正三年 三月一日 運命の出会い!!3年後の高城の合戦の複線ここにあり!!

高良山こうらさん(高良大社 福岡県久留米市御井町)に参詣し、神社内を一通り見て回って帰ると、高良山座主(座主:代表者)の使いの者5名が酒を持ってきたので食事を振舞った。

天正三年 三月二日 地侍じざむらい巣窟そうくつの筑後国。いい感じで通行料を取られる(苦笑)・・・

午前八時に出発。町の出口にて、別当べっとう(寺社が所有する領地などを管理・統括している人。武士であることが多い)への通行料をとられた。
そこから神代くましろ(福岡県久留米市山川神代)の渡り場に移動して筑後川を渡った。
そこから草野殿(草野鎮永くさのしげなが)の関所を通って進むと、右手に草野殿の城(竹井城 福岡県久留米市草野町吉木)があった。(草野氏は、筑後の有力な地侍勢力のひとつ)
更に進むと、星野殿の城があった。(妙見みょうけん城 福岡県うきは市 または福益ふくます城 福岡県うきは市吉井町福益)
ここに北野天神という大きな神社(北野天満神社 福岡県久留米市北野町)があったので、参詣した。
その先の三原という村(福岡県三井郡大刀洗町大字本郷あたり)に到着すると、また草野殿の関所があり、通行料を取られた。
その先に筑前国の三奈木みなぎの板屋(福岡県朝倉市三奈木と福岡県朝倉市板屋のあたり)に住んでいる、源五郎という者の家に一泊した。

天正三年 三月三日 ようやく筑後国を抜け、筑前国へ入る

小石原こいしわらの町(福岡県朝倉郡東峰村大字小石原)の彦左衛門の家に一泊した。(小石原は筑前国)

島津家久 往路筑後国

管理人コメント

天正三年 三月一日、そのとき歴史が動いた!!島津家久と高良山座主の出会い

さて、3月1日の「高良山座主」という記述を見てピンと来たあなた、ステキです。高城の合戦マニア(笑)です。
この3年後、大友氏は大軍勢を動員して日向国(宮崎県)高城を包囲・猛攻します。
ここで登場した「高良山座主」と「星野殿」の一族と思われる星野長門守は、大友側に属する「筑後勢」の一員として日向国(宮崎県)高城城下に攻め進みます。
その高城を守っていたのが、奇しくも島津家久です。
ちなみに、前のページの「島津家久、関所の役人にブチ切れる」で、島津家久が避けて通った蒲池かまち氏も、「筑後勢」の筆頭として高城城下に攻め込んでいます。(詳しくは天正六年十月 大友の大軍 高城を包囲猛攻し、守将の島津家久、山田有信 これを死守すをご覧ください)
このときの大友勢は、数万から10万以上とも言われた大軍勢でしたが、高城を守る島津勢はわずか3千であり、高城の落城は時間の問題とも思われていました。(詳しくは星野長門守、高良山座主の内通をご覧ください)
しかし、その優勢な大友側に属していた高良山座主と星野長門守は、劣勢の島津家久に対して、なんと内密に降伏を申し出るのです。以下にその降伏状の内容を掲載します。
『今回大友氏の出陣命令に従って、仕方なくここに従軍してきました。
最近の大友氏の政治は、侍を蔑(さげず)み、民を虐待するような暴政です。
私はこのような仕打ちに対して不満を持っていますが、私一人の力では反抗することもできません。
ですので、我ら200名余りは時が来れば必ず島津方に忠節を尽くしますことをお伝え申し上げます。
また何かありますときには笛を吹いて合図いたします。』

動機は大友氏による「侍をさげずみ、民を虐待するような暴政」であると書かれています。どういうことでしょうか?
これは、キリスト教に傾倒する大友氏による、日本の宗教(仏教や神道)への弾圧と考えられます。(詳しくは天正六年八月 大友宗麟 宣教師を伴って無鹿に至り、キリスト教王国建設に尽力すをご覧ください)
当時の日本人にとっての宗教とは、日々の生活に深く結びついたものであり、生き方そのものでした。自らの宗教を否定されることは、自らの生き方そのものを否定される(つまり、侍としての生き方をさげずまれる)ようなことであり、到底受け入れがたいものだったのです。
この感覚ついては、現代(明治維新以降)を生きる我々はなかなか理解できません。明治維新以降、日本の宗教は生活から切り離され、「冠婚葬祭の為の宗教」という感覚になってしまいましたので・・・
ただ、当時の日本人は我々とは違う感覚を持っていました。知識人である侍や、僧侶はなおさらだったと思います。
大友氏による宗教弾圧の具体的な例としては、日向国の占領地における寺社仏閣や仏像の破壊活動が挙げられます。
実はその破壊活動を実行させられたのが、大友氏に動員された高良山座主や星野長門守らといった日本の神仏を信じる武士たちだったのです。皮肉なことですね。
彼らの罪悪感・不満・無念の感情は、宗教観が異なる現代の我々でも想像に難くないのではないでしょうか?
このような不満を持っていた武士たちは高良山座主・星野長門守以外にも多かったようです。
実際に、高城合戦から敗走する大友勢の中には、『今回の敗戦は神仏のバチが当たった為』だとして、従軍していたキリスト教宣教師に危害を加えようとする者もいたようです。

高城の合戦のその瞬間に話を戻しましょう。
かねてからの心のわだかまりを抱えながら、高城を包囲する軍勢に参加する高良山座主と星野長門守。彼らの目の前には、あの島津家久がいる。
彼は島津家の当主の弟でありながら、わずかなお供を連れて伊勢神宮へ巡礼に行くほどの信仰心の篤い男だった。
3年前の春、自分たちの領地(筑後)に立ち寄った折にも高良山や多くの寺社仏閣に参拝していたし、我々と親しく挨拶も交わした。
そしてその島津家久が今、大友の大軍勢の数度にわたる総攻撃にも耐え、一糸乱れぬ統制を保って善戦している。武将としても天晴れではないか・・・。
これは、内通へ心が動くのも分からなくもないです。彼らは島津家久に対する、尊敬の念を持ったのかもしれませんね。

もしも島津家久が高良山座主と筑後国で出会っていなかったら、高城合戦での降伏状もなく、島津家久は大友勢の猛攻に心身ともに疲れ果て、高城は落城し日向国は大友領になっていたかもしれません。
実際に、島津家久は彼らの降伏状を合戦の序盤に受け取って、非常に心強く感じており、その後の反撃計画にも彼らの助力を得ようとしていた形跡があります。少なくとも大友勢の内部情報は得ていたはずです。

天正三年 三月一日の高良山近くでの小さな出会いは、島津氏が大友氏を打ち破る小さなきっかけを作り、そのきっかけは島津氏の九州平定、ひいては豊臣秀吉への大友宗麟による九州征伐の嘆願という日本史の奔流へとつながったのである!!(ナレーション:松平定知)♪パパパーン パッパラ〜 パ〜パ〜パ〜ン♪
某NH○さん、やってくれないかな?(笑)・・・

星野殿の城

3月2日に家久一行が見た「星野殿の城」について、少しだけ注釈を加えます。
この記述の城は、素直に読むと妙見城の事と思われますが、北野天満神社あたりから10Km以上離れた遠い山の上にある妙見城は見えにくいと思われます。
ひょっとすると島津家久一行が見たのは妙見城の支城で、妙見城よりも山のふもと近くにある、福益ふくます城(福岡県うきは市吉井町福益)だったのかもしれません。

佐土原衆のひとりごと 難易度★★★★★

「筑前にへりゃったな」
日本語訳(笑):筑前にお入りになられたな
佐土原衆は、「入る」が、「へる」または「へぇる」となります。それの過去形が「へった」または「へぇった」です。
さらに、尊敬語「られる」が、「りゃる」となり、それの過去形が「りゃった」です。
「はい+られ+た」が、「へ+りゃ+った」です。あまり訛らなかったら、「はい+りゃ+った」とも言いますが・・・。
さらに応用です。
「けしにゃった」日本語訳:お亡くなりになった などもあります。
これがスッと出てくれば、ネイティブです(笑)。
これも間違いなく尊敬表現ですよ!念のため。(笑)



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