島津家久、霊場 英彦山の桜をめでる

天正三年 三月四日 VIP待遇で英彦山ひこさん参詣

もとより英彦山ひこさんへ参詣するつもりではあったが、特に急ぐこともなく歩いていた。
すると英彦山から、わざわざ使いの僧侶が2頭の馬を連れてやって来て、『是非この馬に乗っていらっしゃってください』と言われたので、急いで参詣することにした。
さらに政所まんどころ(英彦山とその周辺を運営管理する役所)から、5、6名の山伏やまぶしが酒を持って途中まで迎えに来た。
その山伏たちと政所(福岡県田川郡添田町英彦山の旧政所坊庭園きゅうまんどころぼうていえんあたり)へ到着すると、色々なもてなしを受けた。
また、風呂にも入らせてもらい、英彦山神社ゆかりのものを頂いたりした。

天正三年 三月五日 感動とうっとりの旅!英彦山!!

英彦山ひこさんへ登ると、修行のために山にこもっている修験者しゅげんじゃ達が、修験しゅげんを行っているのに出会った。
その修験者達が各々ほら貝を吹いている光景を見ると、とても感動した。
その後に英彦山を下山して、英彦山周辺にある宿坊しゅくぼう(修行する者のための宿)を一回り見学すると、
般若坊はんにゃぼうという宿坊に、たぐいまれなほどの美しさで花を咲かせている山桜やまざくらの木があった。

天正三年 三月六日 英彦山を出発する

政所まんどころより太刀たちを一腰(1本)と、色々な贈り物を頂いた。
出発しようとしていると再び2頭の馬が用意されていて、帆柱(福岡県京都みやこ郡みやこ町犀川帆柱)まで馬で送ってくれた。
送ってくれた者たちにお礼の品を贈って、更に進んだ。
この日は城井きい氏が支配する内垣(福岡県京都みやこ郡みやこ町犀川内垣)という村の、常心という禅僧の家に一泊した。

島津家久 往路筑前豊前

管理人コメント

VIP待遇での英彦山への参詣

険しい九州山脈の合間を縫うように進んでようやく英彦山の近くにたどり着くと、予想外のVIP待遇を受けたようですね。
英彦山は修験道しゅげんどうの山としては、奈良県の熊野などと並んで、三大修験道の山のひとつとされる山です。
当時の有力な寺や神社は広い領地を持ち、聖・俗の両面において一勢力を形成していることが多かったのです。
ですので、『薩摩・大隅を治める島津家の当主の弟が来ている』と聞いたら、政治的な面からも気を使っておもてなしをしたということでしょう。
家久公の記述を見ても、このVIP待遇はちょっと予想外だったみたいですね。
ちなみに「風呂に入らせてもらえる」というのは、当時の常識としては最上級のおもてなしだったようです。
今みたいに、お湯の蛇口を開ければすぐに風呂に入れるはないのですから・・・
千利休が、招いた客人に遠慮なく風呂に入ってもらうために、わざと屋敷の門の前の地面をドロドロにしておいて、客人の足元が汚れるようにしていたというのは有名な話です。
このように、当時において風呂に入らせてもらうというのは、遠慮してしまうほどの最上級のおもてなしだったのです。
だから家久公も「風呂に入らせてもらった」とわざわざ書いているのだと思います。

般若坊の山桜やまざくら

修験者の吹くほら貝の音色に感激したり、山桜に感激したりと、通常の戦いの記録には出てこない家久公の感情の機微が見えてなんともいえない感じですね。
ちなみに、現代の我々が思い浮かべる桜は「ソメイヨシノ」という江戸時代末期に品種改良で生まれた桜ですが、この時に家久公が見たのはちょと違う桜で、山桜という、桜の野生種の事だと思われます。
家久公がこの桜を見たのが現代の暦だと4月の下旬頃にあたります。この時期の九州の平地では、山桜は散り終わっていますが、気温の低い高地である英彦山なら、ちょうど開花時期と思われます。
原文では『ひさくら』とのみ記述してありましたが、管理人としては山桜のことだと解釈しました。時期がもっと早ければ寒緋桜かんひざくらの可能性もあったのですが・・・
さて、この山桜、今も残ってるのかは分かりません。現存していたらぜひ見てみたいものですが、2つの理由からおそらく現存してないと思います。
理由の1つ目は、クスの木などに比べて桜の木は寿命が短い(有名な吉野の桜でも樹齢500年くらい)こと。
2つ目の理由としては、この6年後に英彦山は大友氏の侵攻を受け、一帯の宿坊(修行する者のための宿)などがたくさん焼き討ちにあったので、その折に焼失した可能性が高いことです。
それでも場所について、出来うる限りの推理をしてみましょう。

手がかりは『般若坊』だけです。この宿坊は現存していないようです。
しかし、英彦山の古い伝承にわずかな手がかりがありました。
天竺てんじくから、五本の剣が日本に飛んで来て、第1の剣が英彦山の般若窟で発見され、そこが玉屋神社となった』
玉屋神社(福岡県田川郡添田町英彦山)は、英彦山神社の西側に現存する神社で、古くから修験場だったらしいです。
もしかすると般若坊は、この玉屋神社(般若窟)の近くにあった宿坊で、玉屋神社(般若窟)付近で修行をする行者の宿舎だったのかもしれません。
家久公は、英彦山神社から政所側(彦山の西側)に下山ていますし、現存する山道のルートが玉屋神社(般若窟)の近くを通っているので、ここに立ち寄った可能性はあります。機会があればぜひ行ってみたいです。

佐土原衆のひとりごと 難易度★★★★★

「下のやっどんなぁ風呂にへぇっちょらんやろうなぁ・・・」
日本語訳(笑):部下の連中は風呂に入っていないんだろうなあ
佐土原衆は、「奴ら」が「やつ+ども」→「やっ+どん」になります。ちょっと薩摩弁チックですね。
それと、「やっどん」の次の「な」がさらに文章を難解にしています。この「な」は、「は」です。やっどん「は」ということです。
「へぇっちょらん」も難解ですが、「入っ+て+ない」が「へぇっ+ちょ+らん」です。
ホントに日本語なんでしょうか?(笑)
知り合いのところにホームステイしていたドイツ人の少年が、こんな「日本語」を覚えて帰国したらしいですが、ドイツでは在留の日本人を含め、誰にも通じないと思います。(合掌)・・・



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