城井殿という人(城井谷城の城主である、城井鎮房の父、城井長房の事と推定)が隠居している屋敷を見学した。
更に進むと、左手に馬ケ岳(福岡県京都郡みやこ町)に立つ永野殿の城(馬ケ岳城 福岡県京都郡みやこ町犀川花熊)があった。
更に進んで、今井という町(福岡県行橋市今井)の矢野次郎五郎という者の家に一泊することにした。
その日の夜には、辻雅楽介という人が、慶雲という禅僧と一緒に、金剛鈴(仏具)とカゴに入れた料理を持って話をしにやってきた。
蓑島(福岡県行橋市蓑島)というところを見学した。(現在の蓑島は瀬戸内海に突き出た小さな半島だが、当時は島であり、城が建っていた。)
正午に今井の町を出発し、午後二時頃に苅田の町(福岡県京都郡苅田町)を通り、曽根という村(福岡県北九州市小倉南区上曽根)にて宿を探し、次郎という者の立派な屋敷に一泊した。
3月3日頃に九州の西側の平野から九州山脈に入り、3月7日には九州山脈を超えて北東側の平野に出てきています。
色々と寄り道をしながら、この日程でしかも徒歩で九州山脈を越えるなんて現代人の我々からするとスゴイの一言です。
さて、家久公が英彦山を超えて降りてきたところは北部九州(豊前国)です。この地域は当時、毛利氏と大友氏という中国地方と九州地方を代表する一大勢力同士が、血を血で洗う争奪戦を繰り広げていた地域です。
つまり、この地域は当時の島津氏が経験した事がないような大規模な合戦(数万対数万)が度々行われていた場所でした。家久公としても興味津々だったと思われます。
以前にも書きましたが、家久公のこの旅行はただの遊びではなく、諸国の偵察もかねていたと思われます。しかもウワサの紛争地域に入ったこともあり、道中の色々な勢力の城や屋敷を見ながら進んでいます。
そんな記述のひとつとして、3月7日に城井谷城だけではなく、すでに引退している城井長房と思われる人物の屋敷まで興味深く見聞して記録しているところあたりが読者の深読みを誘います(笑)。
つまり、城井氏は、高城の合戦(耳川の合戦)で島津氏が大友氏を破った後に島津氏側に寝返ります。
この旅行記に特に詳しく記述が見られる人の中には、後に島津側に味方する人が散見されます。
その好例としては、島津家久、運命の出会いを果たす!!♥にて登場した高良山座主と星野氏があげられます。
彼らはこの3年後の高城の合戦(耳川の合戦)に大友勢として参戦します。しかし、島津家久がわずか3千の兵を率いて数万の大友勢に取り囲まれている状態、つまり味方(大友勢)が絶対優勢の時に、自発的に味方(大友勢)を裏切って島津家久に寝返りを申し入れています。
家久公は、この旅行中に本当は何を行っていたのでしょうか?絶対に全ては記録に残していないと思われます。それ考えると夜も眠れません。(笑)
もうひとつ、家久公は3月8日に蓑島を見学したと書いています。
現在の蓑島は海岸沿いの半島です。我々がこれを読むと、『ああ、海辺の絶景スポットを見に行ったのか』と思いがちですが、そうではありません。
蓑島は当時は瀬戸内海に浮かぶ島でした。蓑島は関門海峡や瀬戸内海を睨む戦略的に重要な島でしたので、蓑島城が築かれており水軍の拠点でした。
陸地のすぐ近くにある要塞化された島、そしてウワサに聞く瀬戸内海の水軍の拠点ともなれば、家久公がわざわざ1日がかりで見に行って記録に残すのも理解できます。
ちなみに、地図の海岸沿いにある「松山」という山には松山城という城があります。この地域での毛利氏と大友氏の戦いでは、本来そちらが激戦地なのです。
それでもそちらに行かず、あえて蓑島に行っているところからも、水軍と水上要塞に興味があったのではないかと推測しています。
さすが、抑えるべきところは回り道してまでも抑えてますねぇ・・・。家久公、真面目です!