伊東義祐 政道を怠り、民や諸将 大いに嘆く


時代背景-都での動き-

天正三年、この年には、織田信長と疎遠になった室町幕府の将軍足利義昭が、織田信長に追われて備後国に毛利家を頼ってに落ちのびている。
将軍 足利義昭を迎え入れた毛利輝元は、吉川元春、小早川隆景らの軍勢を整えて、足利義昭を奉じて信長と争う構えを見せている。


伊東義祐の暴政に諸将、民衆は苦しむ

伊東義祐いとうよしすけの政治

伊東義祐いとうよしすけ都於郡伊東氏とのごおりいとうしの当主である。都於郡伊東氏は南北朝時代に工藤祐時くどうすけときが日向国都於郡城(現宮崎県西都市大字都於郡町)に入って伊東の姓を名乗ってから始まっている。
工藤祐時は、「曽我の仇討ち」で有名な工藤祐経くどうすけつねの息子である。工藤祐経は日向国地頭職じとうしきに任じらていたので、息子の祐時がそれを継いで日向国に下ったのである。
伊東義祐はその祐時から数えて10代目の伊東家当主である。彼は非常に「みやこ」に対する思い入れが強かったらしく、朝廷に献金をして、地方の大名としては破格の高位である「三位さんみ」の位を得ている。
また、京の文化もこよなく愛し、佐土原で京都に似せた街づくりをしたり、佐土原に大仏を鋳て(作って)大仏殿を建立したり、京都の金閣寺きんかくじを真似た金箔寺きんぱくじを建立したりした。そして、このような義祐を頼ってさまざまな文化人が食客として佐土原城にいたようである。
その頃の義祐の行状を佐土原藩譜はこう記している。『和賀津留の屋敷を移し、宮殿を模した別邸を建てた。庭の池に河の水を引き、庭木や庭石は全て珍しいものを取り揃え、豪華の限りを尽くすものだった。昼夜酒色に耽り、遊び暮らし、更に薩摩大隈の制覇を目指して、鐘に”日薩隅三州太守”の銘を刻むほどだった』
これらの義祐の政治は、民衆から見れば過酷な課税を強いるものであり、家臣団から見れば、自分達よりも取り巻きの文化人を優遇する姿勢に見えたに違いない。

伊東義益、父義祐を諌めるも急逝す

この頃の伊東家の家中の動きを伝える様子が佐土原藩譜に記述されている。
伊東義祐の嫡男義益よしますは、内大臣小松重盛ないだいじんこまつしげもり(→平家一門の一人。誰も逆らうことのできなかった晩年の平清盛に対し、その暴政を独りで諌め続けた)のように、彼は伊東家の中でたった独り、父である義祐の政治を諌めて続けていた。
しかし父義祐の行いが変わらないことを見ると、岩崎神社に一日中篭って父の改心を祈った。
すると7日目に夢に神童が出てきて、瑠璃るり盃を義益に与えた。酒は盃の8分目まで満たされ、不思議な香りがしていた。義益がこれを飲み干すと、盃の中に金泥(金色)の文字があるのが見えた。内容は、『千尺釼切端的悪、一盃酒浸未来善』(→千尺の剣が確実に悪を切り、一盃の酒が未来を良い方向へ導く)というものであった。
目覚めた義益は「願いが成就した」と喜び、城に帰った。しかしすぐに病に倒れ、1斗程の血を吐いて死んでしまった。
昔(平安時代)は小松内大臣が父(平清盛)の悪逆を諌め熊野に詣でて死を祈り、今日(戦国時代)は伊東義益が父親の横暴を憂いて岩崎神社にこもり救いを求めた。
有能な臣、孝行な子供、その心は今も昔も変わらない。あろうことか子は行く末を案じて、父は横暴である。天はよこしまなる者を助けるのか、義益(子)は死して、義祐(父)はますます横暴を尽くしている。(佐土原藩譜より)

<総括>伊東義益の記述について

実は、上記の佐土原藩譜の記述はかなり信憑性に欠けるところがある。それは、この記述の主人公を祐時すけとき(→祐時は初代当主)と書いてみたり、祐益すけます(→伊東マンショ。義祐の孫であり、この時はまだ生まれていない)と書いてみたりしている。
義益は永禄12年に岩崎神社での必勝祈願の後に病気で急逝した義祐の次男である。このことは別の文献にも記述がある。この点においてこの佐土原藩譜中の記述を祐時ではなく義益と置き換えて記述した。
詳細な信憑性は分からないが、当時の伊東家の内情を示すエピソードとしては面白い資料であると思い紹介した。



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耳川の戦い 高城の合戦 島津義久  伊東家を調略し日向国を制圧す。伊東義祐  大友氏を頼り豊後に逃る