天正六年十月
高城の守備兵 疲弊するも高城の守りを緩めず



高城の最終防衛地点の一つ。この曲輪を陥れて、この斜面を突破すれば本丸になだれ込める。

大友勢は、引き続き高城包囲を継続

敵となる人とても、何か恨みのそうらへじ

天正六年十月二十日の、大友勢の3度にわたる攻撃が失敗に終わった次の日は大友勢に動きはなかった。大友勢としては「ここは仕切りなおし」というところであろうか?
また、この頃は高城の周囲も厳重な包囲が行われていなかったようで、高城から出入りすることもある程度可能だったようである。鎌田出雲守の都於郡とのごおり城から200名余りの兵が高城に馳せ参じて、高城に入ったと記述がある。
その翌日の天正六年十月二十二日、高城の川原で薪を取っていた大友の軽卒けいそつ(→多くは雑用係であり、非戦闘要員)に対して、高城の城兵が城を出て襲い掛かり、少々小競り合いがあったようである。
さらにその翌日には、大友勢は高城の川原に進出し、自陣の周りに柵を張り巡らせて高城に通じる道を封鎖した。恐らく大友勢としては、高城に対する持久戦を覚悟したと考えられる行動である。

このときの大友勢は、陣中でも笛や太鼓を打ち鳴らし、舞や酒宴を催していたという記述が見られる。戦陣でのこのような振る舞いは、高城にこもっていた将兵には奇異に見えたかもしれない。当時、九州6カ国を治め、京都との文化的な交流もふんだんにあった大友氏ならではの心の余裕とでも言うべきか・・・。

そんなある日、大友方の志賀勘六という者が高城近くにやって来てこう言った。
「昔から諸侯が国をめぐって争う時には、諸侯に従う武士が武器を取って戦うのは当たり前のことである。私もあなた方も明日をも知れない命であることに関しては同じ境遇である。たとえ今回の戦で敵となっている人であっても、決して恨みがあるわけではない。よって、高城の御大将に対して篭城戦の陣中見舞いをさせていただきたい。」
彼は陣中見舞いとして、島津方に酒樽を一つ、菓子の入った壷を一つを贈呈した。

その翌日、島津方の諸将は、何か大友方に返礼をせねばと考えていた。
その時、高城の地元の人間で永利助七という者が、高城川で釣りをして大きなスズキをたくさん釣りあげ、これを島津家久に献上してきた。
島津家久は、配下の上野半介と妹尾仁介に、このスズキと酒樽一つを持たせて「先日のご返礼を致す」と大友方の陣に叫ばせた。
大友方の陣からは受け取り役の侍が出てきた。大友方の使者と島津方の使者は、大友の陣と高城の間の平原で酒を酌み交わし始めた。島津家久の配下の妹尾仁介は舞の名手であったので、その場で朗々とうたを歌いながら舞を舞った。大友方の陣中からも「すばらしい舞だ」と声が上がり、島津家久も「よくやった」と満足気であった。
(勝部兵右衛門聞書)

星野長門守、高良山座主の内通

その時、大友方の陣から小勢(数十人の軍勢か?)が出てきて状況は一気に緊迫した。島津方も高城から軍勢を出してこの軍勢と弓矢を構えて対峙した。
しかしその部隊を率いていた武将は島津勢に会釈して、「薩摩衆に申しあげたいことがあります。矢文を差し上げます」と言って手紙を巻きつけた矢を撃ってきた。これを拾って持ち帰り、島津家久に見せた。

手紙の主は筑後国(福岡県南部)の星野長門守、高良山執行良観であった。手紙は次のような内容であった。「今回大友氏の出陣命令に従って、仕方なくここに従軍してきました。最近の大友氏の政治は、侍をさげずみ、民を虐待するような暴政です。私はこのような仕打ちに対して不満を持っていますが、私一人の力では反抗することもできません。
ですので、我ら200名余りは時が来れば必ず島津方に忠節を尽くしますことをお伝え申し上げます。また何かありますときには笛を吹いて合図いたします。」
これを読んだ島津家久は喜び、兄であり島津家当主である島津義久しまづよしひさの援軍が到着するまで持ちこたえることを誓った。(勝部兵右衛門聞書)

島津家を救った湧き水

それからしばらくたつと、大友勢の高城封鎖が厳しくなり、高城城中では水不足が深刻化し始めた。
困った城兵が、城外に出て高城川(小丸川)の水を汲もうと試みたが、大友勢が水汲み場への道を封鎖していて水を汲むことが出来なくなっていた。このまま水が不足したままであると、そのまま乾き死ぬか、石ノ城のように降伏しなければならなくなる。
城中で、いよいよ水不足が深刻化してきていたある日のことである。古い土塀の下にわずかに水がしみ出しているのが発見された。
祈るような気持ちでここを掘ると、なんと3日後には水がこんこんと湧き出し始め、泉のようになった。この泉の水は高城の城兵すべてに分け与えてもさらに湧き出していた。
城中の人々は小躍りして「天は我が島津氏を助け給うた」と喜び、高城の守備兵の命はつなぎとめられ、兵の士気も一気に回復したという。(佐土原藩譜、勝部兵右衛門聞書)

<<高城川での最終決戦まであと15日ほど>>


<総括>大友勢のなかには戦意に乏しい諸将もあり
         島津家久これを知り活路を見出す?

筑前ちくぜん筑後ちくご勢の憂鬱ゆううつ

大友氏のこの日向国侵攻には、遠く筑前、筑後から動員されて来た諸将もあった。筑前、筑後と言えば現在の福岡県である。
第三章の天正六年二月 大友宗麟 伊東義祐の願いを聞き入れ日向国に侵攻すで触れたように、日向国に侵攻してきた大友勢の中にはいろいろな理由で戦意に乏しい諸将が混ざっていたようである。まずは自分には全く利益のない遠いところの合戦(合戦の目的はキリスト教宗団建設と伊東義祐の日向国復帰)につき合わされているという心情があったに違いない。
また、星野長門守の手紙にもある、『侍をさげずむ』というのは、キリスト教徒ではない侍(一般の侍)の宗教観や生活習慣を認めないという意味であろうと推測され、そのような立場をとる大友氏に対する不満を読み取ることができる。
ここでも、大友宗麟おおともそうりん大友義統おおともよしむね親子の急進的なキリスト教政策のひずみが見て取れる。
彼らも耳川の北岸にいる頃には、寺社仏閣の破壊活動および教会の建設事業に従事させられていたであろうから、彼らの心中は穏やかではなかったであろう。
現代に生きる私のような人間であっても、寺をぶっ壊して仏像を燃やすなんてことは恐ろしくてできない・・・。しかもいつ死ぬか分からない戦場にいる時にそんな罰当たりなことを・・・。皆さんは平気だろうか?

歴史を変えた湧き水

高城城内に湧き出た湧き水であるが、まさに歴史を変えた湧き水と言っても良いかもしれない。どんなに勇猛な人間も水なしでは生きられない。水を断たれるのは食を断たれるよりもすぐに効いてくる。
この湧き水が、どこにあったのか現在は分からない。そもそも高城は台地上にあるので、水が下から湧き上がると言うよりは、山を削った崖から水がしみ出たと考える方が自然である。
とにかく、高城の城兵はこの湧き水のおかげで渇きを潤し、島津義久の本隊が到着するのを待てたのである。この湧き水がなければ、この合戦の勝敗はもちろんのこと、この後の歴史まで大きく変わっていたであろう。
もしかして現代の日本の国の形までも変わっていたかもしれない・・・


写真で見る高城紀行 その二
その二(高城の本丸部分の風景)

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佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間サイトマップ

耳川の戦い 高城の合戦メニュー 大友の大軍  高城を包囲猛攻し、守将の島津家久、山田有信  これを死守す 伊東の臣  長倉祐政  三納村にて衆を集め決起し周辺地域を蹂躙す