大友勢が高城を囲んだ天正六年十月二十日を10日さかのぼった、十月十日、実はある計画が実行されようとしていた。
これは日向国中に散らばっている旧伊東氏の城(=伊東四十八城)の近隣に住む伊東の旧臣が十月十日に一斉に蜂起し、おのおのの近くの城に放火した後に、都於郡城に攻め込もうという計画である。
これを準備したのは、すでに三月に石ノ城で決起していた長倉祐政である。彼は極秘裏に日向国中の伊東の旧臣に決起文を送り、反乱の準備をしていたのである。
これには大友の水軍が連携して動いていた。豊後水軍は兵船を内海、折生迫の港に派遣していた。計画としては、豊後水軍がこの港に入り次第、一斉に決起する約束になっていたのである。
しかし、決起実行前日の十月九日、決起文を受け取っていた伊東の旧臣の一部に裏切りがおきて、決起計画は島津方に通報され、事が露見してしまった。決起しようとしていた者たちはその日のうちに捕縛され殺されてしまった。
この、島津方にとっては恐るべき計画はすんでのところで失敗に終わり、豊後水軍もなす術なく豊後に引き上げざるを得なかった。
ある文献によれば、伊東四十八城それぞれに城下に数10人から100人以上の決起者が集まる予定であったと書かれている。この時期は大友の大軍が高城に到着する直前であったので、島津方としては本当に危ないところであったと言えよう。
日向国中一斉で蜂起する計画だった十月十日がやって来た。しかし企みはすでに露見し、一部の決起予定者は島津方の追及により殺害されていたので、決起文に名を連ねていたその他の伊東の旧臣たちが決起することはなかった。
しかし、大友勢が高城を囲んだ三日後の天正六年十月二十三日、決起計画の首謀者である長倉祐政は諦めていなかった。彼は石ノ城から生還(島津方の兵に護送されて耳川の北岸に強制送還されていた)後に再び耳川南岸に潜入し、高城の近くの三納村に潜伏した。
そして伊東の残党を糾合して三納村周辺で千余名を集め軍勢を編成し、河原田の僧房に立て篭もった後に、周囲の村に火を放って蜂起した。
長倉祐政が率いる軍勢は、地頭の伊地知重隆及び配下の者数人を殺害し、平群を占領した。
そして更に進軍して八代、本荘、綾の村々を焼き討ちにした。
長倉祐政は、都於郡城に迫り、川原田に火を放った。
周辺数十キロにわたる地域は騒乱状態となり、交通も遮断され、島津方は反乱の全容をつかむことすら困難な状態となっていた。
この状態を見た霧島神社の僧が急ぎ島津義久のもとへ報せに走った。このとき義久は日向国へ向けて出陣した直後であり、まだ鹿児島にいた。
天正六年十月二十四日、長倉祐政の決起軍に包囲された都於郡城は、城主不在(都於郡城主の鎌田政近は高城に援軍として駆けつけて篭城中)のまま、留守を守る将士が長倉祐政の軍勢を迎え撃った。
そのうちに、高城へ援軍に向かうつもりであった北郷時久及び北郷相久、北郷忠虎が援軍に駆けつけた。
援軍として駆けつけた北郷久廈らの活躍により、長倉祐政の決起軍は撃退された。
その後、都於郡城を守っていた兵と合流した北郷の軍勢は、長倉祐政らの軍勢を川原田道場光大寺まで追撃した。
敗走する決起軍が川原田道場光大寺にたてこもったのを見た北郷らの軍勢は、そのまま寺にたてこもる決起軍に攻撃をしかけ、これを殲滅した。
島津家久(中務)は鹿児島に戦勝のしらせを送るとともに、高城の緊急事態をも加えて知らせた。
このように、三納村周辺の広い地域を蹂躙していた決起軍は鎮圧された。
これは鹿児島からの島津勢(島津義久本隊)が、高城へ続く道を通ることが出来るようになったということである。
しかし、三納城にはいまだに決起軍の一部が立てこもっており、島津勢はこれを攻め落とすことが出来ていなかった。
さらに、決起軍を指揮した長倉祐政はまたしても落ち延びて、高城を囲む大友勢と合流した。
『天正六年八月 島津征久 上野城を攻む。 大友勢 耳川を渡って南進す』や、『天正六年九月 島津征久、島津忠長、伊集院忠棟ら 石ノ城を攻む(第二次石ノ城攻防戦)』で見てきたように、大友勢は、これらの決起行動には時期的に同調することができなかった。つまり、彼らが生きている間に高城に到着できなかった。
そして今回の日向国中で一斉蜂起する計画の時には大友勢は高城に到着する直前であったが、計画自体が島津方に漏れてしまい失敗に終わっている。
伊東氏の旧来の日向国に張り巡らせたネットワークを使用した大友氏の調略は、かなりいいところまでいきながら結局成功しなかった。これらの詰めの甘さはこの後の最終決戦の勝敗に大きく関わっている。
島津氏が日向国を形式的に制圧したのは天正五年の年末である。大友勢が高城を囲んだのが翌年十月二十日だが、島津氏は、その間に各所で伊東の残党と思しき地元勢力と小競り合いのような紛争や、石ノ城のような本格的な蜂起に悩まされている。
また、豊後から大友氏の密命を受けた武将が日向国に潜入し、潜伏することを防ぎきれていない。十月十日に予定されていた日向国中一斉蜂起計画も、伊東方の内部に島津方へ寝返る者が出たからようやく分かった程である。
この様な事実を積み上げると、島津氏がいかに日向国を完全に掌握していなかったかが見て取れる。
この理由については『天正五年十二月 島津義久 伊東家を調略し日向国を制圧す。伊東義祐 大友氏を頼り豊後に逃る』で考察した通り、伊東氏がほとんど合戦をしないまま日向国を明け渡したことに起因するように思われる。つまり、本来なら最期まで抵抗するはずだった武将達が、その持てる兵力などもそのままに生き残って、島津氏制圧下の日向国に潜伏、又は表面上従属する形をとっていたからであろう。
大友氏の侵攻があと半年でも遅ければ、島津氏はそれらの残党を丁寧に平らげて日向国を完全に掌握する時間があったのかもしれない。しかし大友氏の日向国への軍事介入が始まるのは、伊東氏が日向国を明け渡したわずか2ヵ月後であった。
その当時、当主の島津義久が日向国の都於郡城(→元の伊東家の本拠地の城)にいたということは、恐らく戦後の論功行賞(→手柄のあった者にどんな褒美や領地を与えるか決めること)が、ようやく一段落つくかつかないかの時期だったと思われる。事実、大友氏が動き出した直後あたりに島津義久は鹿児島に帰っている。