天正六年十一月
島津家当主 島津義久
軍勢を率いて佐土原城へ着陣す


島津義久、全軍を挙げて佐土原へ進出する

薩摩・大隈国の総力を挙げて出陣

ついに高城が大友勢に包囲されるとの報せが鹿児島に届いた。島津家当主の島津義久しまづよしひさは急いで家臣を集めて軍議を開いて、次のような飛札ひさつ(→緊急の命令を告げる立て札)を国中に掲げた。
「今回の大友勢の攻撃は島津氏にとって未曾有の存亡の危機である。よって、老いも若きも武器を取れるものは全員出陣せよ」
こうして、島津義久のもとには精兵3万が集まった。
天正六年十月二十四日、島津義久は自らこの軍勢を率いて鹿児島を出陣した。
出陣にあたっては、肥後の相良氏に背後を突かれないように、島津義虎に出水城、新納忠元に大口城の守備を命令して、国元の守りを固めていた。(佐土原藩譜)

龍田の川の紅葉かな

鹿児島を出陣した島津義久は、途中、八幡社や、霧島きりしま大社に参拝した。
天正六年十月二十五日、進軍中の島津義久に、長倉祐政ながくらすけまさ三納みのう村で蜂起した知らせが届いた。義久をはじめ諸将は事の重大さを非常に心配したが、翌日には、これを打ち破った知らせ(島津家久が出したという知らせか?)が届き、一同はほっと胸をなでおろしたという。
また、道中で島津義久は奇妙な夢を見ている。
島津義久の夢の中に、一人の老人が忽然と現れた。その老人は、一枚の短冊を義久に手渡した。義久がこれを受け取ってよく見ると、以下のような歌が書いてあった。
討敵うつてき龍田たつたかわ紅葉哉もみじかな
夢の中で義久は、「あなたはどこの住人か?」と老人に問うた。老人は「私は霧島神社の神の使いである」と答えた。
はっと夢から覚めた島津義久は、河田駿河守を呼んで、この夢は良い前兆なのか悪い前兆なのかと問うた。義久は更に、島津歳久しまづとしひさの配下の者にも吉凶を尋ねた。皆はこれは合戦に勝利する前兆に違いないと喜び合った。島津義久はこの歌を起請文に添えて霧島神社に奉納して戦勝を祈願した。
天正六年十月二十七日、義久の軍勢は紙屋かみや城に入った。その後、先遣隊として伊集院忠棟いじゅういんただむね上井覚兼うわいさとかねらを、樺山忠知が守る佐土原城の守備隊の増援として派遣した。
天正六年十一月二日午前八時に義久の軍勢は紙屋城を出発し、佐土原へ向かった。
都於郡とのごおり佐土原さどわらから島津義久を出迎えに来た者達は数万騎に及び、綾・本庄・六野原辺りまでめいめい出迎えにやって来た。義久ら一行の道中の警護のために、5000人程の兵が道の左右に分かれ、左右別々の装束で立っている様は美しいものであったという。
島津義弘しまづよしひろ島津歳久しまづとしひさ、川上上野介、新納近江、伊集院忠棟、上井覚兼、一所衆、諸地頭らは佐土原釈迦堂の小路まで出てきて出迎え、おのおの義久の宿所までお供した。
佐土原さどわら城、都於郡とのごおり城、富田とんだ城に集結した島津勢は総勢4万騎以上に膨れ上がり、城に入りきれない兵士は、村や田畑に仮の陣屋を立ててそこに寝泊りした。
(勝部兵右衛門聞書、大友御合戦御日帳写)

高城は大友勢に包囲され音信不通

島津義久しまづよしひさの軍勢が佐土原に到着したが、高城にこも島津家久しまづいえひさをはじめとする諸将とは連絡を取れない状態が続いていた。高城は、水を汲みに近くの川に行くこともできない程に、大友勢に包囲されていたのである。
そこで、島津義久らの配下の若い足軽達は、自ら志願して山や川を密かに通ったり、大友勢の中に紛れ込んだりして、何とか高城と連絡を取ろうと試みた。
しかし、途中で大友勢に見つかって殺されたり、川に追い落とされたり、追い詰められて鎧兜を脱ぎ捨てて命からがら逃げ帰ってくる者も多かった。
だがそのような中でも、鹿児島の住人である不笠刑部少輔は足軽多数を引き連れて高城に入城することに成功した。
これを聞いた島津義久は、「自ら志願して高城に潜入を試みた者でも、入城できた者は稀である。無駄に人命を失うようなことはやるべきではない」として、自らは「高城へ行け」という命令を出さなかった。
それでも高城に入城することができた者は島津義久の配下に6人、島津義弘しまづよしひろの配下に2人、島津家久の配下(おそらく留守番役で本拠地に残っていたのであろう)に4人いて、高城との連絡をつけることに成功した。
(勝部兵右衛門聞書)

<<高城川での最終決戦まであと11日>>


<総括>島津義久しまづよしひさはようやく佐土原城に入り
         最終決戦が近づく

もしかすると、釣り出されたのは島津勢だったのかもしれない?

物の本の中には、島津方は大友勢を高城まで「釣り出し」て、そこを包囲殲滅したのだという解釈が散見される。
これは島津氏が得意とする、「釣り野伏」という野戦で用いる戦法を意識しての見解であろうが、管理人の個人的な解釈は、これとは少し異なる。
いままで見てきた通り、常に先に動くのも、何か調略を仕掛けてくるのも大友方であった。ここまでの事実だけを見ると、行動パターンは、大友方の仕掛けを受けて島津方が対策を講じるというパターンである。
大友勢が耳川を渡って南進してくるときに、島津勢がほとんど抵抗しなかったことから、「これは明らかに大友勢を日向国内深くに引き入れる策略だ」とするのも分からなくはない。
ただ、これまでの事実を見れば分かるとおり、天正六年九月十五日の段階で、日向国内に駐留する島津勢に大友勢数万が耳川を渡るのを阻止する力はなかった。そもそも、後方の上野城はようやく落城したばかりで、石ノ城にいたってはいまだに健在なのである。この状態では耳川沿いで大友の大軍と合戦などできるはずがない。管理人の解釈は次の通りである。
島津家久は、高城を最終防衛線として何とか大友勢を足止めして、鹿児島にいる島津義久が率いる島津本隊の救援を待つという作戦しか取れなかったというのが実情であろう。

では大友勢の思惑はどうだったのか?
前述した、上野城の反乱『天正六年八月 島津征久 上野城を攻む。 大友勢 耳川を渡って南進す』と、石ノ城の反乱『天正六年九月 島津征久、島津忠長、伊集院忠棟ら 石ノ城を攻む(第二次石ノ城攻防戦)』と、日向国中一斉蜂起『天正六年十月 伊東の臣 長倉祐政 三納村にて衆を集め決起し周辺地域を蹂躙す』がスムーズに連携が取れていたと仮定すると、鹿児島から日向国高城に釣り出されたのは島津義久の方であったと考えられなくもない。
島津義久の日向国入りが早かったとすると、薩摩から日向に出てきた島津義久を、高城の大友勢と日向国内いたるところで蜂起した伊東の旧臣の軍勢で絡め取るイメージだったのではないか?
また、いまだ島津義久が日向国に入っていない場合は、島津義久は日向国中が騒乱状態になっているので恐らく高岡辺りで足止めされるだろう。
そこで島津本隊の進出を封じ込めて日向国の山東(現宮崎県の海岸寄りの平野部の古い呼び名。ほぼ天正五年の伊東の領地である)を奪還するという作戦だったのではないか。
折生迫おりゅうざこ内海うちうみから飫肥おび城を陥れれば恐らく島津勢は軽々には動けなくなっていた筈である。

耳川の戦い 高城の合戦大友の策略

とにかく、成功していれば非常に脅威であった大友方の目論見は失敗した。ここで島津方はこの一連の紛争における勝利をぐぐっと近づけたのである。



佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間サイトマップ

耳川の戦い 高城の合戦メニュー 伊東の臣  長倉祐政  三納村にて衆を集め決起し周辺地域を蹂躙す 島津義弘ら高城を囲む大友勢を攻む(高城の合戦前哨戦)