天正六年十一月
島津義弘ら 高城を囲む大友勢を攻む(高城の合戦 前哨戦)


高城救出に向けて動き出した島津勢

@高城
  島津家久、山田有信ら
A野久尾のくび
  田北鎮周、伊東勢
B大友本陣
  不明
C川原の陣
  筑後勢の諸将
D松原の陣
  佐伯宗天か?
E大友勢前衛
  大友勢もこの頃までは
  高城川南岸にも
  展開していたと推定
F財部城
  城主川上三河守
G名貫へ
  約1Km先の名貫川まで
  大友陣の存在を推定。
【A】【B】川筋かわすじの違い
  水色が現在の川の位置
  濃い青が当時の川の位置
上図の推定部分などの詳細な論証は近日、高城合戦 重箱の隅で公開予定。


島津義弘 策略を練る

天正六年十一月四日、この日は雨だった。
島津義弘と島津歳久しまづとしひさが今後の戦い方の話し合いをしていた。
話し合いの中で、大友勢が陣地に火をかけて撤退するのではないかという噂が話題に上ったが、噂に過ぎないとされた。
ちょうどこの日は吉日だったので、島津義弘は、島津義久に考えた作戦を説明した。
また、根白坂付近にて、大友勢と島津勢の小競り合いがあり、河田駿河守が大友勢25,6人を討ち取ったとの報せがあった。
天正六年十一月五日 午後二時頃
高城から上床主税介と土橋(某)の2人が使いとして来て次のように告げた。
「高城の状態がいよいよ切迫してきているので、ぜひとも早く高城川原へ御出発して欲しい。」
高城の情勢が危機的なことを知った諸将の間では、早く大友の陣に攻撃をかけるべきだという意見が強くなった。 (大友御合戦御日帳写)

あいにくの大雨に地団駄を踏む諸将

天正六年十一月六日 朝
高城に使者として派遣していた平田民部左衛門尉が帰ってきた。
高城の様子については、「高城には詰め込める最大限の人数が篭城ろうじょうしている為、守りは堅固である」とのこと。
しかしながら、「長期間の篭城により、城中では鉄砲の火薬・弾丸、塩や魚が不足してどうしようもない様子であるので、少しでも高城川原への出発を急ぐように」とのこと。
最後に、「大友勢から高城を守る島津家久に対して、『和平交渉に応じるように』と何度も申し入れがあった」とのことが報告された。
この日の諸将の話し合いの結果、「まずは川原の陣を撃破すべし」ということが決定された。
しかし、諸将が準備を整えて出陣を待っていたその夜に、急に大雨が降り始めた。やむなく高城川原へ出発するのが延期された。
この日の雨は非常に激しかったようである。
目の前の大雨や洪水を見た大将格の武将や、下々の兵卒達は、「このような事が起こるとは、天が我々の味方をしていないのではないか」と不安に思いはじめた。かくして島津の軍勢全体が重苦しい雰囲気に包まれた。
雨は翌日の七日も降り続き、八日には上がったようだが、すぐに軍勢が動けるような状態ではなかったようである。
天正六年十一月九日
大友陣に伏兵(野伏)を仕掛けるために、島津義弘、島津征久しまづゆきひさ、伊集院忠棟、上井覚兼らは財部たからべ城(現在の高鍋)に移動した。その後、財部城内の島津義弘の宿所にて一日中話し合いを行った。
ここでも、「とにかく川原の陣を撃破する」ことを再確認した。
(大友御合戦御日帳写)

島津の伏兵(野伏)部隊、密かに動く

天正六年十一月十日
財部城から高城へ使いの僧が派遣された。この折に道中の危険はなかったとのこと。
この日、島津義弘をはじめとして、島津征久しまづゆきひさ島津歳久しまづとしひさ、川上上野守、肝付弾正、伊集院久治いじゅういんひさはる上井覚兼うわいさとかね鎌田政広かまたまさひろ新納忠堯にいろただたか、上原尚近、伊集院美作守、楢原狩野介や、財部たからべ(現在の高鍋)の地頭の川上三河守らが財部城へ集合した。
島津義弘らは、周辺地域の情勢に詳しい伊地知丹後、逆瀬川奉膳兵衛さかせがわないぜんひょうえ、富山備中らを召し出した。最前線の様子を詳しく聞き、その情報を考慮して伏兵の策を再度練り直すためである。
(管理人注:このときに決まった作戦は、川原の陣を攻めるのではなく、松原の陣を攻める作戦であると考えられる)
その日の夜も弱い雨が降り続いていた。しかし「雨が降るのも吉兆である」として、先発部隊は夜10時頃に出陣した。
軍勢の陣立ては以下の通り。
陽動ようどう(→おとり)部隊は300騎程の編成である。この部隊の役割は”おとり”である。つまり、最初に大友勢の通路に攻撃を仕掛け、大友勢の反撃を受けるとすぐに負けたふりをして、味方の部隊が待ち伏せしている場所まで敗走して来ることである。この非常に難しい役割の部隊を率いる大将は、逆瀬川奉膳兵衛さかせがわないぜんひょうえ、富山備中、伊地知丹後守らである。
第一伏兵部隊は500騎程の編成。(展開地点不明)彼らは陽動部隊を追う大友勢の側面を衝く役割の部隊である。
第二伏兵部隊も500騎程の編成であり、俵橋たわらばし付近に隠れた。これも陽動部隊を追う大友勢の側面を衝く部隊である。
本隊は3000名程の編成であり、小丸おまる川(=高城川)北岸あたりに伏兵として隠れた。彼らは、陽動部隊を追ってきた大友勢の全面に突如として現れる役割の部隊である。大将は肝付弾正忠、新納忠堯、伊集院久治らである。
時期的に寒風が吹きすさび、耐えがたいほどの寒さであったが、皆が我も我もと勇み立ち、軍勢に加わった。(この日は現在の暦で12月下旬である)
日付が変わって翌十一日未明、もう一隊の伏兵部隊が出発した。大将は川上上野介、上井覚兼、頴娃小四朗、鎌田政広らであり、根白坂の高城側のふもとを目指した。
最後に、島津義弘、島津征久しまづゆきひさらが別働隊を率いて出陣した。この軍勢は、財部の渡り場の小丸川の南岸に留まり、様子を伺っていた。
(大友御合戦御日帳写、長谷場越前宗純自記、勝部兵右衛門聞書)



<解説>
十一月五日、六日、十一日と、高城への使者が安全に往来していることから、この日付になると前掲の「天正6年11月2日高城一帯の情勢」の地図に出てくる「大友勢前衛」の姿はなかったものと考えられる。
つまり、高城の封鎖は解かれていたと推測できる。
その理由を推測すると、「戦術的後退」や、「島津勢を足止めした大雨により、高城川、切原川が氾濫して川原に居られなくなった」などの理由が挙げられる。


松原の陣、釣り野伏にて破られる

天正六年十一月十一日 正午頃
陽動部隊が伏し隠れている場所の近くの道を、豊後方向へ向かう大友勢が騎馬3騎、歩卒300人ほどで通りかかった。
陽動部隊はこの大友勢を取り囲み、ときの声を上げて一気に攻めかかった。
大友勢のうち、騎馬の1騎は早々に逃げ去ったが、残る騎馬2騎と歩卒73人程が討ち取られた。島津勢は、この大友勢が輸送していた荷駄にだ(輸送中の物資)なども破壊した。
これを見た大友本陣と松原の陣の将兵は、慌てた様子で、馬に飛び乗り、駆け出して、数十人、数百人と連なって両方の陣から現場に急行し始めた。
攻撃をしかけた陽動部隊は、あまりにも大勢の大友勢が出てきては、伏兵の策略も成功しないかもしれないと不安に思った。しかし、とにかく作戦通りに「一旦敵を迎え撃った後に、負けを装って逃げよう」と覚悟を決めた。
そのとき、高城のやぐらの上にてこの戦いの様子を見ていた武将がいた。島津家久しまづいえひさである。実は昨夜、伏兵部隊の諸将は山伏を高城に派遣して、今日の作戦について連絡を取っていたのである。
島津家久は、「遂に始まったか。しかし敵は大勢が松原の陣の方向へ出ようとしている。この大友の大軍勢が援軍に駆けつけては伏兵の作戦が失敗してしまう。ときの声を上げて敵陣に攻めかかるように装い、敵をこちらに引きつけよ」と命令した。
早速、高城の城門が開けられ、軍勢が鬨の声をあげて打って出た。大友勢は続々と引き返し始め、そのまま大挙して高城に向かって殺到した。

高城の三池屋敷の本口では、山田有信、比志島宮内少輔、鎌田出雲守らが指揮を執り、必死の防戦である。
この戦いで、福永丹後守、長谷場弥九朗が討死し、高城城内でも本田次郎左衛門尉が鉄砲で撃たれて討死した。
高城の諸将が、必死に大友勢の本隊をひきつけていたその頃、陽動部隊は松原の陣から出てきた大友勢の攻撃を受けた。陽動部隊は、作戦通りにほとんど戦わずに財部方向に退却し始めた。勝ち戦の勢いに乗った大友勢は、陽動部隊を追って伏兵が潜む地点までやって来た。
「時は今」である。しかしながら、島津方の第一、第二伏兵部隊の将兵は打って出ることを一瞬躊躇ちゅうちょした。大友勢が大軍でこちらに向かって来ようとしているのを見ていたからである。
しかし、お互いに「これではいかん」と思ったのであろうか、勇気を奮い起こした第一、第二伏兵部隊は、一斉に大友勢の両側面で姿を現した。本隊も同時に敵の前面に姿を現した。
たちまち3つの伏兵部隊は、われ先にと攻めかかった。虚をつかれた大友勢はこれに応戦したが、伏兵部隊に押し崩され、組織的な戦闘をすることもなく敗走した。逃げ遅れた少しの大友方の兵が弓や鉄砲で撃ち殺された。
島津勢は勢いに乗ってそのまま松原の陣に攻めかかり、あっという間にこの陣を攻め落とし、火を放った。
松原の陣から逃げ延びた雑兵たちは大友本陣の南の崖を逃げ上って行った。
(大友御合戦御日帳写、長谷場越前宗純自記、勝部兵右衛門聞書)

「生きてこの世に有るならば、ケ程の破陣を見すべきに・・・」

勢いに乗った逆瀬川、伊地知両名が率いる軍勢は、高城の北東方向から大友本陣と川原の陣の間を、敵陣突破しながら高城へ向かい、高城に入城することに成功した。
一方で、高城に攻め寄せていた大友勢が自陣へ退却し始めた。
それを見た高城の軍勢は、撤退する大友勢を大友陣のすぐ近くまで追撃した。追撃する高城の軍勢が大友陣に迫った時、大友の陣の数百丁の鉄砲が火を噴いた。
この射撃を受けて、高城勢は高城へ退却を始めた。
その時、部隊の将であった鎌田出雲守、日置越後介は立派な鎧を着て立派な馬に乗っていたので、大友勢も「名のある大将に違いない」と思ったのであろうか、「逃がすな」とばかりに盛んに鉄砲を撃ちかけてきた。二人はようやく高城まで退却することができたが、退却途中に不笠刑部少輔が討死した。
(不笠刑部少輔は、島津義久が佐土原に着陣した直後に、危険を顧みずに足軽多数を引き連れて高城に入城することに成功した武将である。詳しくは島津家当主 島津義久軍勢を率いて佐土原城へ着陣すを参照)
一方、根白坂のふもとにいた川上上野介、上井覚兼、頴娃小四朗、鎌田政広らの軍勢は、小勢ながら簗瀬を渡って、川原の陣の前面へ来ていた。
また、財部の渡り場に展開していた島津義弘、島津征久、島津忠長しまづただなが伊集院忠棟いじゅういんただむねら諸将の軍勢も川原の陣の前面へ向けて川を渡った。
そこで合流した島津勢は、大友本陣、川原の陣、野久尾陣に対して、柵の外から火矢を射掛けた。また、島津勢が陣地の柵の外に多くの伏兵を配置したので、これらの3つの陣はお互いに行きかう事ができなくなり、孤立してしまった。
高城の城内では、「志布志衆の間瀬田刑部左衛門尉、有川備前守らがもし生きていたら、これほどまでにすごい敵陣突破を見せてやれたのに」と、篭城の諸将が皆で悔しがったという。(両名とも十月二十日、つまり高城包囲初日の戦いで討死)
(大友御合戦御日帳写、長谷場越前宗純自記、勝部兵右衛門聞書、庄内平治記)

島津勢の圧倒的優勢のうちに前哨戦が終了

同日 午後六時頃
島津方の諸軍勢は高城川の渡り口の守りを固めるという作戦に従って、高城川を挟んで、大友勢とは反対側の岸辺にそれぞれ布陣した。(川を前にとって布陣)
しかし、いくつかの軍勢は緒戦の勝ち戦により勢い付き、大友勢の居る方の岸に布陣した。(川を後ろにとって布陣)
この夜は高城川原のいたるところでかがり火をたいていたので、根白坂の上から川原を見下ろすと、晴れた日の秋の星空のように見えた。
(大友御合戦御日帳写、勝部兵右衛門聞書)

<<高城川での最終決戦まであと1日>>


<総括>松原の陣は、教科書通りの「釣り野伏」の前に陥落したが、
           松原の陣攻略は出陣直前に変更された策だった

島津義弘、最新情勢を聞いて土壇場で松原の陣攻略を画策

上記で見てきたように、11月11日の前哨戦において松原の陣が陥落したが、その策は土壇場どたんばで変更された策だったようである。以下に島津勢の会議と作戦の変遷をまとめる。
11月  4日 話し合い→島津義久に作戦を説明 (作戦:川原の陣攻略)
11月  6日 話し合い→出陣準備→大雨で中止 (作戦:川原の陣攻略)
11月  9日 話し合い→吉日を待つために待機 (作戦:川原の陣攻略)
11月10日 最新情勢を聞く→話し合い→出陣 (作戦:松原の陣攻略)
11月11日 松原の陣陥落
作戦は、11月10日の、伊地知丹後いぢちたんご逆瀬川奉膳兵衛さかせがわないぜんひょうえによる最新情勢の報告後に変更されたようである。
作戦変更の原因となった報告はどんな内容だったのか、いくつか推測してみる。
@大雨が降ったことにより、大友勢の布陣が変わったり、地形や道の状態が変わるなどの情勢変化の報告。
A攻略目標の川原の陣が攻略不能だと判断された。または攻略作戦の成功が危ういという情報の報告。
私としては@もAもありうると考えるが、特にAを考えると、そもそも実行されなかった「川原の陣」攻略の作戦とはどのような作戦だったのか気になる。そこで興味深い文献の記述を見つけたので、ここで紹介する。

川原の陣攻略の作戦

11月上旬(と思われる。日付は不明)頃、主だった武将達20名から30名が、参拝にかこつけて久峰ひさみねの観音堂に集まり、小さな陣を作って今後の策について話し合いを行った。
最初は数十人の集まりだったが、この会合を知った若者達が次々に集まってきたので、その場に集まった武者達は、総勢600から700人ほどになった。
これほどの大勢が知恵を絞ったので、一つも策が出てこないわけはなく、以下のような策が決まった。
@2,3人が、大友の陣である川原の陣に忍び込んで、そこに居る尾山の法院と星野と連絡をつける。(彼ら2人は高城を巡る戦闘の際に、密かに島津家久に対して投降の意思を表明していた者である)
A残りの6,700名の者達は川沿いの山に身を潜めて待ち、焚き木の火を合図に川原の陣の内側より城門をあけるので、川原の陣の内部に居る者と連絡を取る。
B作戦開始は午前4時である。川原の陣内部に潜入した者達が導き、一気に川原の陣に斬り込む。その際には、白鉢巻に小幡腰幣を身に付けて味方の目印とする。
Cそうして、その他の陣の大友勢が何事が起こったのか分からずに混乱しているうちに、大友勢の包囲を突破して高城に入城する。そうすると、必ず味方の大軍が続いて出て来るはずである。
Dまた、川原の陣を焼き払い、根白坂まで退いて陣を構えた後に、大友勢の通路を寸断すれば、大友勢は非常に困るはずである。そうなると大友勢は夜陰にまぎれて撤退するか、和睦わぼく(停戦)を申し入れてくるかしかないだろう。
この作戦を伊地知伯耆守いぢちほうきのかみを通じて島津義久に申し上げ、実行の許可をもらいたいと願い出た。
島津義久としても、長年命を懸けて付き従ってくれている者達の言うことなので、そのようにさせたいと思っていた。
しかしながら、失敗する可能性も考えられる。島津義久はしばらく返答に困っていた様子であった。
そこで、作戦の内容を義久に詳しく申し上げると、義久はついに実行の許可を出した。
許可が下りた後に、決行は今日か明日かとしているところに、11月10日の最後の会議の日を迎えたようである。
(勝部兵右衛門聞書)
この作戦が、11月4日に島津義弘が島津義久に説明したとされる作戦だったという確証はない。
ただ、700人近い武将が集まってくる程の有名人は、島津家中に、そうは居ないと思われるし、上記作戦のC、Dあたりは11日に実際に行われた戦いの後半部分の成り行きと合致する部分が多い。
このようなことから私は、この作戦が11月4日に島津義弘が兄の義久に説明した作戦だったのではないかと考えている。
とすると、この作戦が中止された理由は、「川原の陣の内部の尾山の法院と星野に秘密裏に連絡を取れそうにない」と判断されたか、「連絡は取れたが尾山の法院と星野が積極的に協力してくれそうにない」と判断されたという可能性が考えられる。
久峰観音の入り口。

久峰観音堂。諸将はここで大友勢攻略の作戦を話し合った。ちなみに、当時の立派な建物は別の寺に移築されてしまっていて、現在は小さなお堂があるだけである。



佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間サイトマップ

耳川の戦い 高城の合戦メニュー 島津家当主  島津義久  軍勢を率いて佐土原城へ着陣す 天正六年十一月運命の決戦前夜