大友勢 日向より去り、島津氏日向国を完全に掌握す


六国の太守 大友氏が大敗を喫する

大友宗麟 敗走し、島津勢 耳川を超えて進撃

天正六年十一月十二日、敗走する大友勢を耳川の南岸まで追撃した島津勢は、日没と、増水した耳川に阻まれて、一旦追撃を中止した。島津勢は耳川の南岸に陣を張った。
その日の夜も雨が降っていたが、「雨も吉兆である」と聞いたことがある将兵達はそのまま雨に濡れていたという。
→これはいわゆる、島津雨(雨が降ることを吉兆とする鹿児島の風習)のことであろうと考えられる。
(長谷場越前宗純自記)

宣教師ルイス・フロイスが記録する大友宗麟の敗走

一方、無鹿むしかの陣にいた大友宗麟のもとには、逃げ延びた敗残兵とともに続々と「悲報」がもたらされていた。
そのときの生々しい様子が、大友宗麟に付き従っていた宣教師によって書き残されている。
以下の記述は『戦闘の2日後』のことと書かれている。
(→これは十一月十一日の前哨戦の2日後と考えられる。つまり十一月十二日の決戦の日の夜もふけて、日付が変わった十一月十三日未明のことであろう)
無鹿むしかに逃げのびてきた敗残兵は、敗走の恐怖の余り呆然自失となっていた。彼らは島津勢がすぐにでも攻め込んで来ると言わんばかりであり、これらの報告は、聞いていた無鹿むしかの将兵や大友宗麟の恐怖心を駆り立てた。
しかし、その時点での大友宗麟は、冷静に戦況を分析するために、逃げ延びてきた将兵を集結させ、情報を集めて次に打つ策を練っていた。
大友宗麟は、今後の自分自身の行動を自由にするために、まずは明朝に、キリスト教宣教師や非戦闘員である宗麟の家族を豊後に逃がすこととした。
しかし、明朝に宗麟の家族と一緒に豊後に脱出するつもりでいた宣教師達は、夜明けに信じられない知らせを受ける。
『大友宗麟とその家族が、予定を急遽変更して夜のうちに豊後に向けて無鹿を脱出した』という知らせである。
フロイスはこう書いている。
大友宗麟は、次々に知らされる絶望的な報告に放心状態となった。
更に『島津勢が2、3里のすぐ近くまで迫っている』という報告が執拗になされたので、恐怖に耐え切れなくなったのだ。
そうして大友宗麟は、無鹿に持ってきていたほとんどの財宝や高性能な大砲をそのまま残して、兵と全家族のみを引き連れて、宣教師を待たずに無鹿を脱出した。
とり残された宣教師らは、大混乱の中で、自らが持てるだけの重要な財物(多くはキリスト教の礼拝などに使う高価なものである)だけを持って出発した。
彼らは、その日の朝食はおろか、その日の食料を携帯するのを忘れるほどの慌てようで無鹿を後にしたようである。
このとき、ポルトガルからインドを経てわざわざ日本にまで持ってきた財物を、むざむざと無鹿に残して行かざるを得なかった宣教師達の無念が生々しく記述されている。
またフロイスはこうも分析している。「この急な退却を演出するために『敵が迫っている』と執拗に報告したのは、置き捨てられた財宝を横領しようと企んだ日田ひたの将兵の仕業である。実際に彼らは横領を行った」と。
(ルイス・フロイス 日本史)
さて、無鹿にいたフロイスは上記のように記述しているが、島津側の記述と合わせてみると面白いことが分かる。

島津勢の一部が抜け駆け

決戦後の夕方には島津本隊は追撃を中止していたのだが、島津側の文献を読むと、島津勢の中には独断で「抜け駆け」を行う者達がいたようである。以下にその文献の内容を示す。
日が暮れて雨が降っているにもかかわらず、若い兵のなかには舟で大友勢が逃げ去った耳川北岸に渡る者達がいた。
彼らが耳川の北岸に渡ると、そこには大友勢が放置して行った兵糧や、酒、肴が残されていた。
彼らは何を恐れることもなく、合戦の骨休めとばかりに、その場で酒宴を催し騒ぎ始めた。
耳川南岸でこの騒ぎを聞きつけた者達が、耳川を続々と渡って行ったので、夜中の間に400から500名の将兵が耳川を渡ってしまった。
前進の命令は無いのであるが、この抜け駆けを行った者たちは、「無鹿むしか(→大友宗麟が陣を張っていた場所)に逃げ集まっている大友勢を討ち取ろう」と言って、朝までかかって6里の距離を行軍して、夜明け後に無鹿に到着した。
港町である無鹿に着いてみると、大友勢は皆逃げ去った後であり、無鹿には人影が全くない状態であった。
(→恐らく、宣教師らが遅れて立ち去ってから、あまり時間が過ぎていない頃だったと推測できる)
大友勢は大軍を率いての遠征だったので、無鹿に兵糧倉をいくつか作っていた。抜け駆けを行った30名ほどの者達は、これを戦利品として独り占めし、後から来た者達に兵糧を分け与えなかった。
何ともけしからんやつらだと言い合っていると、翌日の未明の二時頃に兵糧倉に火が付けられ、火は十一月(現在の暦では12月中旬)の強い北風にあおられて周囲の建物、兵糧や資材をあっという間に焼き尽くしてしまった。
兵糧倉を占拠していた者達も身一つで逃げ出し、結局は笑って無鹿を後にした。
(勝部兵右衛門聞書)

九死に一生を得たタイミングの脱出

フロイスは、「大友宗麟が島津勢を必要以上に怖がって、判断を誤って早すぎる撤退をした」と述べているが、あながち間違った判断ではなかったことが分かる。
島津方の記述と合わせて分析すると、当日未明の無鹿の状態は以下のように推測される。
夜更けに無鹿に逃げてきた大友方の将兵達が、口々に島津方の追撃部隊(実は抜け駆け部隊)が迫ってきていることを知らせてくる。(→島津方の抜け駆け部隊が400から500名という規模なので、この部隊を島津本隊の先鋒部隊と勘違いしても仕方が無いかもしれない。)
また、次々に逃げてくる将兵の証言から角隈石宗つのくませきそう斉藤鎮実さいとうしげざね佐伯宗天さいきそうてん田北鎮周たきたしげかねらといった重臣達の安否が絶望的なことが分かり始める。
そこで大友宗麟は、初めて今回の敗戦の度合いの深刻さを理解したのではないか?(戦国時代の1回の合戦において、死傷数が数万ということや、1万名に近い軍勢を率いる武将が、同時に複数名討死するほどの敗戦は尋常ではない)
そこに至って、大友宗麟は、『もはや無鹿にとどまっても合流してくる味方の軍勢はないばかりか、それを打ち破った島津勢が今にも大挙して押し寄せてくるかもしれない。』と悟ったのかもしれない。
さらに、「大友の敗戦を知った日向国の地下人(地元の人間)が落ち武者狩りを行った」という記録がこの当日あたりから散見され始めるので、退却のタイミングとしては、宣教師の言うように拙速なものではなく、最後のギリギリだったのかもしれない。
一方、島津方の文献に、大砲や、南蛮の文物を鹵獲ろかくしたという記述が見当たらないので、日田の将兵がこれらの財物を横領したという分析も、全くの見当違いではないようである。
例の兵糧倉の火災で全て燃えてしまったという可能性もあるが・・・。

島津勢の耳川北岸の制圧と、大友勢の過酷な逃避行

十一月十三日、空が白んでくると、耳川南岸に留まっていた島津本隊も動き始めた。島津家久、島津義弘をはじめとした島津一門の諸将、川上上野守、大田治部少輔、伊集院忠棟、平田新左衛門尉らやそのほかの将士は、命令に従って耳川北岸へ渡った。
島津義弘は、配下の者を引き連れて耳川の渡り場辺りの見回りをしていたところ、渡り場の近くの山あいに大友勢2、30名程が隠れていたのを発見し、一人残らず討ち取った。
島津勢は山陰やまげ坪屋つぼやの両城を占領し、勢いに乗って日知屋ひちや門川かどかわ塩見しおみあがたの城、山あいの小さな里まで全て占領した。
大友の敗戦を知った坪屋の地元の者達が、逃げ頼ってきた大友方の将兵200名程を討ち取った。このように各地にて、地元民による落ち武者狩りによる殺害や、山中にて追いはぎにあって餓死、凍死する大友方の将兵は数え切れないほどであったと推測される。
この日、島津家久は耳川北岸から高城に帰り、当主であり兄である島津義久から以下のような手紙を受け取っている。
    このたびの大友勢が高城に攻め寄せてきた時の戦闘において、
    昼夜を問わず戦い続けて、遂に大友勢を打ち破ったことの功名は比類の無いものである。
    この忠義の行いに対して領地を与えることとする。
    世の中に広く武名が響き渡ったことをお祝い申し上げる。
      中務少輔殿(島津家久のこと)
      義久(島津義久)
島津家久はこの手柄により後に佐土原の地を与えられ、佐土原城主となった。
また、土持氏には縣一郡が与えられた。
(大友御合戦御日帳写、長谷場越前宗純自記)

大友宗麟一行の逃避行

一方、食料も持たずに無鹿の陣を脱出した宣教師達は過酷な逃避行を強いられていた。フロイスの日本史を見てみよう。
まず彼らの脅威となったのは、他ならぬ大友方の将兵であった。
大友宗麟は占領した日向国内において、徹底的な寺社仏閣の破壊命令を実行していた。(前に大友宗麟 宣教師を伴って無鹿に至り、キリスト教王国建設に尽力すで書いた通り)
これらの破壊活動に心を痛めていた大友方の将兵が、「今回の大敗は、大友宗麟が神仏に対する信仰を無くしたからばちが当たったにちがいない!」「その神仏に対する信仰を捨てさせたのは伴天連ばてれん(→宣教師)に他ならない!」と言って、宣教師を何度も殺しそうになったと記録されている。
このような危険から逃れるためには、宣教師達は何とか大友宗麟一行に追い付かねばならなかった。大友宗麟の近くにいれば、将兵の迫害からは逃れることができるのである。
その後、彼らは何とか大友宗麟一行に追いついたようであるが、合流した後も過酷な逃避行は続いたようである。
現在の暦で十二月中旬の寒空(余談だが、私が臼杵うすき城の近くの山道を1月頃に歩いた時には、明け方には気温がマイナス6度だった)のなかを、折からの雨で増水した川を歩いて渡り、ぬかるんだ険しい山道を歩き、濡れた地面に野宿する。
それに食料といえば、伐った青竹で「少し火を通した」だけの、わずかな米しかなかったようである。
途中では、地元の百姓が畑の側で作っていた野菜を煮たような料理の半分を、何とか分けてもらい、皆で分け合って食べたらしい。このときのこの料理の味は「天から降ってきたマンナ」のように感じられたと宣教師は記述している。
ようやく豊後国に入った一行だが、寺に身を寄せようとしたところ、対価を払うと申し出てもこれを断られたという記録が残されている。大友領内においても大友氏が既存の宗教勢力を敵に回していた様子が分かる記録である。
このような過酷な逃避行の後に、大友宗麟と宣教師の一行は、何とか豊後の臼杵城を目指して逃げ延びたのである。
皮肉なことに、その年の正月に島津勢に追われて臼杵城に逃げのびてきた伊東義祐を迎え入れた大友宗麟が、同じように臼杵に逃げのびてきたのである。
しかし大友宗麟は、このような逃避行の最中でもキリスト教の礼拝を欠かさなかったという。
(ルイス・フロイス 日本史)
臼杵城













現在の臼杵城正面の門
(工事中でした)

臼杵城













幾重にも石垣がある立派な城である。

島津勢 三納みのう村の決起軍を粛清する

高城に布陣していた大友勢が無鹿へ、さらに豊後へ敗走した後になっても、島津方に降らない城が残っていた。
十月に伊東の残党と地元民が決起して立てこもった三納城である。(→伊東の臣 長倉祐政 三納村にて衆を集め決起し周辺地域を蹂躙す参照)
これについて評定が行われ、「この程度の反乱を鎮めるために、いまさら城攻めを行ってもいたずらに人命を失うだけであるので、謀略を持って鎮圧すべし。」と決まった。

謀略ぼうりゃく

そこで以前にも降伏勧告の使者に立ったことがある僧に、「もう一度島津家に仕える気がある者は内山あたりに領地を与える」という内容を三納村の決起軍に伝えさせた。その概要は以下の通り。
貴殿らは大友方へ加勢して三納城に立てこもっていますが、島津義久は大友の大軍を撃破して戦は終わりました。
貴殿らがこれ以上たてこもりを続けたとしても、助けが来る望みも無く、滅びてしまう事は確実です。
また薩摩、大隈、日向の兵達は、大友勢を撃退したので帰ろうとしていましたが、三納村の貴殿たちのことを聞いて、「最後にひと働きして、戦利品を奪って帰ろうか」と勇み立っています。
拙僧せっそう(僧侶が自分を指す言葉:”私”という意味)は、今回の大友勢との戦いにおいて、島津方の評定に加わり、大友勢を撃破するという「殺生」の手助けをしてしまいました。
よって、今回貴殿たちの命を救う事で罪滅ぼしをしたいと考えています。是非拙僧らに和平の仲介をさせてください。
また、貴殿らの島津家に対する謀反の意図が、君主である伊東義祐を日向に戻してさしあげようという、忠義の心からである事はよく分かっています。これは立派な忠義心からの謀反であり、伊東義祐を日向から追い出した野村、福永らの謀反とは違うものである事は理解しております。
俗に『毒薬変じて良薬となる』というように、貴殿らの伊東家に対する忠義心を島津家に向けるのであれば、喜んで内山(恐らく高岡町の内山のことであろう)に領地を用意いたします。
これを聞いた三納城の決起軍は喜び、使いの僧に贈り物を贈る者、幼い我が子を「その僧の弟子に」と預ける者、三納村の反乱を指導した大友の武将が、実はまだ一人隠れている事を教える者もいたようである。
謀略と知らない三納城の決起軍は三納城を開城して、使いの僧に連れられて神妙な態度で佐土原城に出頭し、しばらくそこに留められた。

容赦なき粛清しゅくせい

決起軍を佐土原に留めている間に、島津方は50から60名の者を三納村に派遣し、大友の武将を探した。大友の武将は村人にかくまわれていて発見まで3日を要したようだが遂に東郷与助が手傷を負いながら討ち取った。
十一月十八日、佐土原にとどめられていた300名程の者達は、「早速、内山の鎌田尾張守に会って屋敷をもらい、引越しを行うように」と命令され、島津方の案内者を付けて、喜んで内山へ出発した。
しかしその道中には島津の伏兵が1000騎ほど隠れており、彼らが通りかかったところで一斉に包囲しこれを殺害し、逃げ延びた者達も方々に追い詰められて殺された。
このようにして三納城の反乱は鎮圧された。

回向には我と人とを隔つなよ

十一月二十三日、大友勢の遺骸が集められて塚に葬られた。その塚は豊後塚と名づけられた。(現在の宗麟原そうりんばる供養塔くようとう
その日、今回の戦にて死んだ人が成仏できるように、福昌寺の住職である代賢大和尚位が300名余りの僧を引き連れて大施餓鬼(供養)をとりおこなった。
一心不生萬縁供に休すというお経が読まれた。
本当に草木や国土までことごとく仏であると思われ、仏の教えを知っている者も知らない者も皆ありがたいことだと感じ入った。
(長谷場越前宗純自記、大友御合戦御日帳写)

日新公いろは歌に曰く
    回向には 我と人とを隔つなよ  看経は良し してもせずとも
    −死者への弔いには敵味方を区別してはいけない。ただ、自ら読経をしなくてもよい−

島津家は大きな合戦の後には、敵の犠牲者を弔うための供養塔を建てるのを常としていたが、高城合戦の後も例外ではなかった。
現代に至っても、宗麟原供養塔には、大友勢ゆかりの方からと思われる献花が行われているようである。

降伏した筑後衆のその後

さて、戦いの途中に島津方に降伏した、大友勢の中の筑後衆はその後どうなったのだろうか?さまざまな文献に散見される足跡を追いたい。
十一月十三日(決戦の翌日)
筑後の高良山の座主と、星野の両人の軍勢あわせて300名余りは真幸表(日向[宮崎]、薩摩[鹿児島]、肥後[熊本]の国境あたりの島津領)に送致し、菱刈某によって八代に送り届けるように話し合われた。(大友御合戦御日帳写)
日付不明
大友勢の豊前衆、筑後衆、筑前衆の中で、秋月殿、星野殿、赤星殿については大友方に組して高城にて島津方と一戦に及んだが、秋月殿、赤星殿、星野殿は事前に和平を結んでいたので命を助けて本国へ送り届けた。(大村重頼古戦記)
日付不明
筑後の尾山法印と星野長門守は薩摩に連れて行かれ、出水の島津義虎に歓待された後に船に乗って筑後に入った。(勝部兵右衛門聞書)
十二月十七日に島津義久から星野長門守に出されたと思われる手紙
    このたび、思いがけず戦闘を行ったのだが、
    島津家の配下に入りたいと申し出てくれる事は非常にうれしい事である。
    島津家の配下に入ったお祝いとして、こちらに手紙と太刀、織物を贈ってくれたことについてありがたく思っている。
    今後とも長く懇意にしたいと思っている。お祝いの意味を込めて、太刀と織物を差し上げる。
    十二月十七日  義久
    星野九朗殿
筑後衆は無事に本国に帰されたに違いない。


<総括>高城合戦とは何だったのか

さまざまな切り口がある高城合戦

高城合戦は、実に多様な切り口がある合戦である。

宗教対立という切り口で見る高城合戦

宗教対立という切り口で見ると、この合戦は「大友家中のキリスト教派と神仏派との対立に加えて、神仏派としての島津家との対立」の戦いという見方が出来る。
もしこの戦いで大友家が島津家に壊滅的な打撃を与えて、南九州までを版図としていたら、九州を本拠とする、東アジアで最大級のキリスト教勢力が誕生していたに違いない。
これは、当時の国際政治のパワーバランスや戦略にも影響を与えるかもしれない大事件である。ひょっとして現在の世界地図も変わっていたかもしれない。
(宗教対立という切り口で総括を行っている文書は以下を参照)
天正六年二月大友宗麟 伊東義祐の願いを聞き入れ日向国に侵攻す
天正六年八月大友宗麟 宣教師を伴って無鹿に至り、キリスト教王国建設に尽力す
天正六年十月高城の守備兵 疲弊するも高城の守りを緩めず

九州の本格的な戦国時代の幕開けという切り口で見る高城合戦

九州の本格的戦国時代の到来という切り口で見ると、この合戦は「九州最大勢力の大友氏に対して島津氏が大金星を挙げ、大友氏が没落して島津氏、龍造寺氏の三つどもえ状態を招いた」戦いという見方が出来る。
文献などを調べれば調べるほど、島津方の勝利が薄氷を踏むような、神がかり的な勝利だった事が明らかになっていったのが非常に興味深かった。
客観的に見れば、大友方の勝利確率は7〜8割だったのではないかと考えている。
だからこそ、普段は決して最前線に出てこない島津義久が、決戦前日に根白坂に陣取ったのであろう。
実は、この島津義久の最前線への布陣を知った島津方の諸将が、「何事か?」と驚き、「何はとにかく御命令を」と次々に義久の陣に駆けつけたという記述が残っている。
島津氏の起死回生の逆転勝利は、島津家久、山田有信、島津義弘、島津征久、伊集院忠棟ら諸将の力量の積み重ねと、島津義久の一世一代のパフォーマンスによる島津勢の団結によるものであり、これにより、九州の戦国時代の歴史が更に大きく動き出したのである。
(この後に島津氏に圧迫された大友宗麟が豊臣秀吉を頼り、九州征伐が始まる。)

日向国(宮崎県)のその後の運命を決めたという切り口で見る高城合戦

日向国のその後の姿を決めたという切り口で見ると、この合戦は「日向国全体を統治するような、大きな支配者がいなくなった」戦いという見方が出来る。
日向国はこの後に完全に島津領となり、その後の豊臣政権による領地の細分化(小大名の分立配置)により、現在でも中・小規模の都市が県内にきれいに散らばる県になってしまっている。
仮に「日向藩」と呼ばれるような日向国全体を治めるほどの大きな藩(20万石くらいか?)が存続していたら、現在は佐土原、都於郡を中心に、西都市南部、児湯郡の南部、宮崎市の北半分まで続くような県庁所在都市があったのかもしれない。(佐土原県佐土原市か?)

佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間サイトマップ


耳川の戦い 高城の合戦メニュー 天正六年十一月 両雄ついに高城川にて激突す(高城の合戦)