日向国に、当時「山東」と呼ばれていた地域がある。これは現在の宮崎県の東側、海寄りの肥沃な平野部のことである。まさに、島津領から見て、山(を越えた)東(側)という意味であった。
この頃、島津氏の勢力は既にこの「山東」の境界まで迫っていた。「山東」の境界線は最前線であり、伊東氏にしてみると絶対防衛線であった。そして、この最前線を挟んで2つの城が建っていた。
西の高原城は島津方の将 上原長門守が城主として虎視眈々と「山東」を窺い、
東の野尻城には伊東方の将 福永丹波守が城主として、「ひし」と守りを固めていた。
この膠着状態はしばらく続くように思われた。しかし折からの伊東家中の動揺により、この拮抗状態はあっさりと崩れるのである。
以下にその様子を記した2つの資料を紹介する。
伊東家の臣 野尻城の城主福永丹波守は、当地に侵出してきた島津勢を警戒し、配下から屈強の精兵300人を選抜して島津方との最前線に配置し、厳重な守備体制をひいていた。
しかしこの年は運悪く凶作の年であり、野尻城内の兵糧は少なかった。
困った福永丹波守は、兵糧の支援を申し出るために伊東義祐(当時の当主は伊東義賢であったが、伊東義祐は当主の後見として、実権を掌握していた)がいる都於郡城に参上した。
都於郡城に着いた福永丹波守を迎えたのは、取次ぎに現れた保賀次郎、平島新右衛門であった。
福永丹波守は、この2人に、主君である伊東義祐に、兵糧の援助の件について取り次いでもらえるように頼んだ。
取次ぎを頼んだからといって、すぐに主君から呼び出しがかかる(会ってもらえる)わけではない。
しかし、いつ何時、呼び出しかがかかるかもしれない。つまり、いつ呼ばれても良いように待機しておかなければならないのである。
福永丹波守は、夜は一族の福永新右の屋敷に宿泊した。そして昼は都於郡城の広間に参上して、伊東義祐からの返事をひたすら待ちつづけていた。
しかし一方、伊東義祐は福永丹波守が来た知らせを受けても、歓迎の意思を表すことをしなかった。
むしろ逆に、伊東義祐は福永丹波守を避け、密かに山に出て遊んだり、舟遊びをしたりして一向に福永丹波守に会おうとしなかった。
そうしているうちに、福永丹波守が伊東義祐の返答を待ち続けて17日が過ぎた。
福永丹波守は、返答が一向に無いのでついに憤慨し、保賀次郎、平島新右衛門を再び呼んでこう言い放った。
「私は伊東家の為を思い、心を尽くして広間で待つこと17日にもなるのに、何の音沙汰も無い。それどころか義祐公はただ山に出かけたり舟遊びをしたりするだけではないか。」
さらに彼はまくし立てた。「とりまき達もご機嫌をとるだけで政を省みないとは何事だ!」
憤激冷めやらぬ福永丹波守は、そのまま宿所の福永新右の屋敷に帰った。そして彼は福永新右に暇を出し、馬を引き出して野尻に帰ろうとしていた。
(都於郡城下に住む、一族である福永新右に暇を出すということは、このままここに住み続けると身の危険が及ぶという事への配慮であろう。この時点で福永丹波守の腹は決まっていたと考えられる。)
そうしていると、取次ぎを請け負った保賀、平島の両名が慌ててやって来た。
彼らは「兵糧の件は望みどおりにしてやるからもう少し待て」と言って福永丹波守をなだめた。
しかし、福永丹波守は馬上から「もう何も話すことは無い」と言うのみであった。
(『馬上から』というのがポイントである。通常は馬から下りて応対するのが礼儀であるのに、『馬上から』である。ここでも彼の心中が読み取れる。)
しかし、保賀、平島の両名は「明日、野尻城に300包みの兵糧(→"糧包"とあり4,5日分の米が入った包みのことか?)を送る」と申し出て何とか福永丹波守をなだめようとする。
それを聞いても福永丹波守の心は変わらなかった。彼は、「広間で待つこと17日にもなるのに慰労の言葉の一言もなかったのだ。この期に及んで何を言ってももう遅い。」と言って野尻城に帰ってしまった。
野尻城に帰った福永丹波守は、兵卒300名を集めて都於郡城での苦々しい体験をつぶさに語った。兵卒もその話を聞いて憤慨した。
その後のある日、福永丹波守は山を散策するという名目で城を出た。
その一行の中には、大きな入れ物を担いでいる一団がいた。
実は、この入れ物の中には福永丹波守の子である、宮千代が密かに隠されていた。
彼はこのように密かに我が子を連れ出し、島津方へ人質として差し出した。ついに島津方への寝返りを実行に移したのである。
また、飫肥の地頭、野村監物(堅介)も同じように伊東義祐に対する諫言を行ったが、かえって怒りをかうところとなり、島津方へ寝返ってしまった。(佐土原藩譜より)
この、野村監物(堅介)は高城の最終決戦で活躍するので是非、覚えておいていただきたい。
福永丹波守らの寝返りには他に諸説がある。上記は佐土原藩譜による記述であるが、日向記には、少し違う内容が書かれている。以下は日向記の記述である。
島津方は前の年(天正四年)に伊東方より奪った高原城に上原長門守を城主として配置していた。
この上原長門守という武将は知略に優れた武将であった。
彼は「福永丹波守が謀反を企てている」などといった内容の偽手紙を書いて、わざと伊東方の目に付くような場所に落すという情報操作を行った。
これは、伊東家の中での福永丹波守の立場を悪くするための工作である。
この工作はまんまと的中した。偽手紙の一件は伊東義祐の知るところとなり、怒った伊東義祐は、福永丹波守の出仕を停止した。
(今で言う出勤停止で自宅謹慎)
その後、福永丹波守の嫡子である藤十郎が元服(→成人)した。彼はその報告のために伊東義祐のもとに参上して待っていたが、会ってもらえなかった。
この仕打ちに福永丹波守は涙を流して腹を立てた。失意の彼は、そのまま野尻城に帰り、上原長戸守を通じて島津方へ寝返ったという。
また、野村氏の一族は、福永丹波守の親類であった。
野村氏は日向国中に多く散らばっており、内山地頭の野村刑部少輔、飫肥地頭職の野村監物(堅介)などを筆頭に、伊東家中で多くの役職を占める一族であった。
福永丹波守は、島津に寝返るにあたって、この野村一族を誘い、野村一族の中にもこれに応える者が多かったという。(日向記より)
福永丹波守はついに伊東義祐に対する反乱を実行に移した。天正五年十二月七日の夜に、島津勢300騎余りを野尻城の中に招き入れたのである。(惟新公自記には、島津義弘は自らの側近2,30騎を率いて急遽野尻城に入城したとある)
それを知った伊東義祐は軍勢を率いて紙屋城まで出陣した。
しかし、そのとき島津義久が大軍を率いて野尻城に進出した。これを見た伊東義祐は「戸崎城が危ない」と感じて、一度退却を余儀なくされた。
その時、伊東義祐の軍勢は、かねてより福永丹波守と示し合わせていた野村氏の一派があちらこちらで合図の火を掲げているのに遭遇した。
この島津に味方する一派が、そこかしこに放火したり、伊東方の城を軍勢で取り囲んだりし始めたので、伊東義祐は誰が味方で誰が敵なのか分からない状態になってしまった。(以上注釈なしは日向記より)
(この時点で伊東勢は団結して島津勢を迎え撃つことができなくなってしまったようである。)
島津勢は十二月九日に綾に攻め入り、十二月十日に都於郡城を包囲した。
島津勢に包囲された都於郡城の城中は混乱のるつぼと化した。
伊東義祐は家臣の長倉祐政を呼んで対応策を問うたが妙策はない。
譜代の諸将である山田、荒武、藤田、河原田、平部らは城を守る気がなく、各々の所領(→自分の領地)に帰ってしまった。
結局彼らは伊東義祐の召集に応じず、過半数が籾木ノ城に来て島津勢に降伏を願い出た。
伊東方は一戦も交えずに敗色濃厚となった。伊東義祐はすこぶる落ち込み、反対に島津義久は勢いに乗って自ら軍を率いて去川を渡り、高岡に陣を張った。
島津方の一つの軍勢は、新納忠元を大将として中山北谷口より伊東義祐のいる都於郡城に向かって進撃。
もう一つの軍勢は島津征久を大将として、三箇名口を進撃し、黒貫寺の西に沿って進み、(都於郡城の)東断崖の下に到着した。(佐土原藩譜、日向記、惟新公自記より)
日向国で権勢を振るった伊東義祐はいまや篭城の将となり果てている。それも、昼夜を問わず遊宴を共にしたとりまきや法師がわずかに数十人そばに居るだけであり、とても城を守ることが出来る状態ではない。
抗戦することをを諦めた伊東義祐は、深夜に城を出て鹿野田を通り、田島城(佐土原城のこと)に逃げ落ちた。
伊東義祐がいなくなった都於郡城に残された男女は、なすすべもなく右往左往するばかりである。
そして、攻め込んできた島津方の兵に多くが斬られた。
そうしているうちに、夜半に大中(平?)寺の門前から火の手が上がった。火は折からの強風にあおられ激しく燃え上がり、南の櫓に燃え移り、あっという間に延焼した。
こうして都於郡城は落城した。(佐土原藩譜)
勢いに乗る島津勢は、伊東義祐が逃げた田島城(佐土原城)を攻めた。
島津勢の先鋒700人が岩崎峠を下り春田に進撃すると、伊東義祐は抵抗せずに未明に佐土原城から逃亡した。
彼は一ツ瀬川を渡って富田ノ原(→現宮崎県児湯郡新富町)を過ぎて財部(→現宮崎県児湯郡高鍋町)に落ちのびようとした。
しかし、伊東の臣である財部城主落合藤九朗は、あろうことかその行く手を阻んだ。
行く手を阻まれた伊東義祐は、使者として、東光坊という山伏に栗木太郎五郎を付き添いに付けて派遣した。用件は道を通させてほしいということである。
しかし落合藤九朗は使者である東光坊を撲殺してしまった。付き添いの栗木はこれを見て急いで伊東義祐の元に帰り、事の次第を報告した。
報告を聞いた伊東義祐ら一行は、財部を通過することを諦め、穂北(→宮崎県西都市大字穂北)へ向かうことにした。
その日は身を寄せる場所もなく、途中で野宿した。
一行が、ようやく花園原にたどり着いた頃に、穂北城主長倉洞雲斎の嫡子である藤七朗が伊東義祐一行を迎えに来た。
長倉洞雲斎は、数代にわたり伊東家から受けた恩義を忘れずに、伊東義祐一行を穂北城に迎え入れ丁重にもてなした。
しかし、穂北城だけでは迫り来る島津勢を支えるだけの守備の兵もなく、次の日に小八重山に入った。ここでも長倉藤七朗は案内役として30町ほど道中を共にした。
その後、伊東義祐主従は険しい米良の山道をたどって豊後に入り、大友宗麟に助けを求めた。(日向記、佐土原藩譜より)
穂北城の下辺りから、伊東義祐主従が逃げ落ちて行った小八重山(つまり九州山地)の方向を見る。
この河川敷の上の山(写真向かって右側)の中をたどる道が小八重山へ続く山道である。
厳寒の冬に、穂北城主 長倉洞雲斎に見送られて小八重山に入る失意の伊東義祐の心中はいかばかりのものだったであろうか・・・。
当初、伊東氏は、宮崎城に安井某、権藤某、井上主殿、福永豊前、稲用源太夫を置き、
那珂城には土持蔵人、安藤三河、都留某、大脇某を置き、
児湯城には、落合五郎丸を置き、
平野城には米良籐七を置き、
富田城、丹生田(新田)城には湯池外記、川崎大膳を置き、
有嶺城には永友丹後、井本左門、沼口越中を置いていた。
最初はそれぞれが城を守っていたが、最後には皆敗れて城を空け渡した。
また、田島城(佐土原城)も島津方に降り、山東は島津方の手に陥ちた。
島津義久は軍功のあった島津の諸将を日向国の各地に封じた。
また、臨時の占領軍として、末弟島津家久をはじめとする諸将を交代で佐土原城に駐屯させ、日向国の戦後統治体制を固めた。(佐土原藩譜)
以上のように、伊東義祐が戦いらしい戦いをしないまま豊後に逃れたことによって、島津氏はほとんど犠牲を払うことなく日向国を制圧することができた。(福永丹波守が謀反を起こしてから伊東義祐が穂北城から米良の山へ落ち延びるまで、わずか4日である)
このことは、この事件からわずか11ヶ月後に起こる高城の合戦に、島津勢として十分な体力で臨むことを可能にしている。仮に島津氏が大きな犠牲を払って日向国を手に入れていたとすると、高城川で大友勢を正面から迎え撃つだけの体力が残っていたかは疑問である。
しかし、このことは逆の意味も持っている。伊東に心を寄せる者達も、合戦に負けた訳ではないので、ほとんどは生き残っていた。この時点では、伊東の残党、伊東に心を寄せる者が多数日向国内に潜んでいる状態であり、実質的に言うと、島津氏は日向国をまだ完全に掌握していない状態であった。
このことは、大友勢が日向国侵攻を開始した後に島津勢を大いに苦しめる伏線となる。
さて、ここまでの話で管理人が気になっているのは、穂北城の結末である。伊東義祐をかくまった長倉洞雲斎、藤七郎の父子は、この後どうなったのだろうか?日向記、西藩野史、惟新公自記、大友記、佐土原藩譜、高城興亡記、どの文献にも記述が見当たらない。
最後まで主君伊東義祐に忠義を尽くしたこの父子の最期が非常に気になるところである。
この穂北城の結末を含め、この後に紹介する「上野(穂北)城攻め」には少々謎めいたことが多いのだが、それは「島津征久 上野城を攻む。 大友勢 耳川を渡ってさらに進撃す」の章と、「謎の上野城合戦 長倉洞雲斎親子と二人の壱岐加賀守」で御紹介しよう。
実はこの章で管理人が注目する伊東方の武将がでてきている。
包囲された都於郡城で伊東義祐と評議を開いた長倉祐政と、
いち早く島津氏に寝返り、伊東家没落の原因を作った野村監物(堅介)である。
長倉祐政は島津氏に次々になびいた伊東家の家臣の中にあって、伊東義祐への忠義を貫いた男である。この後の章で伊東家再興のために奮戦するので、ぜひ覚えておいて頂きたい。
また、野村監物はこの後の章で、大友の大軍が大挙して押し寄せた高城に島津方として駆けつけて篭城し、高城の最終決戦まで大友の大軍相手に奮戦し続けるのでぜひ覚えておいて頂きたい。
彼らはお互い選んだ道は正反対であったが、それぞれ立派な武士としての生き様を見せてくれる武将である。
ちなみにこの宿敵同士の二人は、何の運命のいたずらか、高城の最終決戦の最後に、戦場で出会うことになる・・・。