米良山中に逃れた伊東義祐主従は、十数日の逃避行を経て、ようやく天正五年十二月二十五日に河内村にたどり着いた。
年が明けて天正六年一月七日、大友氏の使者が河内村に至り、伊東義祐、子供の伊東祐兵、孫の義賢、義勝等を豊後に招き入れた。
大友宗麟は、伊東義祐、祐兵らに大野郡野津寺小路村光明寺の館を与え、また、野津院に300町の領地を与えた。
その頃、島津氏に降伏して、形式上は従っていた門川城主の米良四郎右衛門、潮見城主の右松四郎左衛門、山陰城主の米良喜内は、伊東義祐が豊後に逃げ延びたことを知り、密かに集合し談合していた。
そして、門川城より豊後の佐伯城主の佐伯紀伊入道宗天に、「もし大友氏が島津氏を攻める場合は、どうかその軍を我々の城へ迎え入れ、大友勢の先導役を務めたい」という内容の密書を送った。(日向記、佐土原藩譜)
伊東義祐は、大友家の重臣である田原親賢らをはじめとする様々なルートで大友宗麟に対する「日向侵攻」を働きかけたようである。先祖伝来の地を理由もなく島津に奪われた悲哀を訴え、もし日向国を島津から奪回できたときは日向国の半分を大友氏に差し出すとまで申し出ている。
この熱心な懇願を受けて大友宗麟は日向侵攻を決意したが、大友家の家臣には反対を唱える者が多かった。大友の臣、斉藤鎮実は次の2つの不安要素があるので、日向侵攻への反対を主張している。
<不安要素1>毛利輝元が、この数年来筑前(→福岡県)、豊前(→大分県北部)を狙って侵入してきたように、日向侵攻中にいつ毛利勢に背後である筑前、豊前を衝かれるか分からない。筑前、豊前の諸将は前にも毛利に寝返ったことがあり、毛利が攻め込んできた際には信用できず、非常に危険である。(毛利への備えには立花山城の立花道雪があてられている)
<不安要素2>肥前(佐賀県)の龍造寺隆信が、毛利輝元や島津義久と組んで大友に向かってくるかもしれない。龍造寺隆信だけで3万の兵を動かせるだけに油断ならない。
斉藤鎮実の主張は、以上のような理由から日向国侵攻はもう少し時が来るのを待つべきであるというものであり、もっともな論である。しかし大友宗麟はこれを聞き入れずに、諸将に出陣の命令を出した。(大友記、日向記より)
攻略部隊は大きく2部隊に分けられた。肥後方向(西)から日向国(宮崎県)に攻め込む部隊と、豊後(大分県 宮崎県の北)から日向国に攻め込む部隊である。
肥後口の部隊は、志賀入道道輝(親守)、戸次(立花)入道道雪、高橋入道紹運らを大将として、肥後(熊本県)の諸将が従い、そのほかの部隊は大友宗麟、大友義統らと供に豊後から攻め込む手はずとなった。
このとき肥前国(長崎県・佐賀県の一部)の龍造寺隆信は、大友にも島津にも味方せずにじっと中立を守っていた。(勝部兵右衛門聞書)
先に島津を裏切る旨の密書を受け取っていた佐伯宗天は、差出人の3人(門川城主 米良四郎右衛門、潮見城主 右松四郎左衛門、山陰城主 米良喜内)に「すぐに大友勢が助けに来るからそれまで頑張れ」という内容の返書を送った。
天正六年二月二十一日、大友の家臣である臼杵相右衛門、吉永新助、柴田治右衛門尉、深栖若林らの先鋒が陸海路で門川に到着した。
伊東義祐は、自らの家臣である伊東新助、伊東弾正、佐土原摂津守、福永宮内少輔、宮田讃岐守、稲津孫八郎らを、この大友の先鋒隊に同行させた。
彼らは、日向国に土地勘のない大友勢の道案内や、調略(→裏切り工作や情報収集)を担当したようである。
事実、この門川における評議で練られた調略により、耳川周辺の伊東の旧臣で、島津に従属していた勢力(山陰、田代三方、坪屋、日智屋、水清谷、入下、神門三方など)が大挙して大友方(伊東方)に寝返るのである。
また、大友方に寝返った耳川周辺の勢力の手助けにより、伊東の臣である長倉祐政、福永宮内少輔や稲津孫八郎らは耳川を超えて島津支配地域に潜入し、地元の伊東の残党と石ノ城に立てこもり、島津勢と戦うことになるのである。
(日向記、佐土原藩譜)
左図のように、開戦前の時点で高城以北の勢力の多くが大友方に寝返っている。
開戦前の時点で事実上の最前線は土持氏の足元をすり抜けて、高城のすぐ北まで南下していたのである。
伊東の臣を使った伊東の旧臣への切り崩しという、大友の調略が非常に功を奏した結果と言える。
この大友の動きに鹿児島の島津義久は気がついた。義久は、人質に取っている門川城主 米良四郎右衛門の子供と、潮見城主 右松四郎左衛門の子供を殺害してしまった。
わが子を殺害されたことを知った両人は、打倒島津の意思をますます固くしたという。
天正六年三月三日、伊東義祐は彼に従って日向国から豊後国に落ち延びた長倉祐政に命じて、密かに島津氏の勢力下にある日向国に潜入させた。潜入に成功した長倉祐政は、現地で伊東の残兵数百を集めて石ノ城に立てこもった。
石ノ城は高城から10キロメートルも離れていない場所にあり、難攻不落の絶壁に守られた城である。当時は使われていない城だったが、そこに長倉祐政が立てこもったのである。大友側としてはまさに敵地の奥深くにくさびを打ち込んだ状態となり、島津側にとってみれば青天の霹靂ともいえる出来事だったに違いない。日向国内は大友の軍勢が動き出す前に、すでに一部で戦闘状態になっていたのである。
時を同じくして、門川城主 米良四郎右衛門、潮見城主 右松四郎左衛門、福永新十郎(日知屋地頭)が一斉に島津を裏切り縣城の土持親成を攻めた。攻撃を受けた土持親成は、都之郡城にいた島津義久に急を告げている。
天正六年三月十八日、伊東祐兵を道案内役に、佐伯宗天、息子である佐伯惟実、志賀親教らの先鋒隊、田北紹鉄、田北鎮周、田原親貫、田原親賢、吉岡鎮興、吉弘鎮信、朽網宗歴、戸次玄珊、戸次鑑連(→これはちょっと再確認が必要)らの部将、柴田礼能の水軍を伴い土持親成を攻めた。
ここに至って大友勢の本格的な侵攻が開始された。
一方、島津家当主である島津義久は、この日に都於郡城を出て鹿児島に帰っている。島津義久のこの動きは、早々に伊東氏との合戦の戦後処理を終えて、大友氏の動きに対応するために本拠地に帰ったと見るべきだろう。
これについては諸説あり、島津側の資料には主に「領土欲」や、「島津氏の実力をなめていたから侵攻した」という内容が多い。
大友側の資料には「伊東義祐の懇願による」等諸説あるが、その中で管理人が支持している説が「日向国に、ローマにも聞こえるほどのキリシタン王国を作るため」という説である
これは当時日本に来ていたポルトガル人の修道士であるルイスフロイスが書いた「日本史」の記述からうかがい知ることができる。
また、実際に日向国北部を制圧した大友宗麟は、島津氏との最前線には見向きもせずに、かの地においてキリスト教王国の建設に没頭している。
もともと大友宗麟は他の戦国大名以上に、神仏の教えを重んじていた。当初は彼は特に禅宗に深く帰依していたとフロイスは書いている。大友宗麟は知識人としても一流であったようだ。
大友宗麟がポルトガル人の宣教師と出会い、彼らと交流するうちにキリスト教に傾いていった様子は「日本史」に詳しく書かれている。
大友宗麟は一流の知識人であった。それゆえにイエズス会の宣教師という一流の知識人集団との出会いが、彼の旺盛な知的探究心の方向を変えていったのであろう。つまり、大友宗麟の知的好奇心は、禅宗ではなくキリスト教そのものや、キリスト教的な価値観に裏打ちされたヨーロッパ式の法律、国の体制、文化に向かっていったのである。その意欲は彼が知識人として一流であったが故に激しく、盲目的であったように思われる。
また、そのような父を間近で見ている嫡男の大友義統が父と同じくキリスト教に傾いていったのも自然なことかもしれない。以下に彼らのキリスト教政策の一端を紹介しよう。
例えば豊後国では八幡の祭というお祭があった。大友家は毎年この祭りに1万5千から2万人の武者を参列させ、祭を盛大にとり仕切っていた。しかし彼は、嫡子である大友義統と共に、ある年から突然参加しなくなった。彼らは八幡祭の日は祭に参加せずに、終日教会で過ごし、国中の人々に衝撃が走ったと記録されている。
また、豊後国内で八幡祭と並ぶほどの大きな祭である、愛宕祭というお祭があった。大友義統はある年からこれを開催すること自体を取りやめている。さらに、民衆がお盆に行う盆踊りにも禁止令を出し、盆踊りをする者を斬り殺すように命令を出した。最期には自らの屋敷に安置してあった迦葉と達磨の等身大の貴重な仏像を屋敷の庭に投げ捨て、小姓を呼び「あの木片を海かどこかに投げ捨てよ」と命じたという。
このように大友宗麟はキリスト教以外の宗教勢力に対する対立を強め、自国を通過する山伏や僧侶に関しては捕らえて切り殺すように命令し、寺社仏閣が所有する田畑や財産を没収している。これについて家中から天罰を恐れる声が上がっているが、比叡山を焼き討ちした後でも天罰も下らず、ますます栄えていた織田信長を引き合いに出して、自らの政策の正当性を主張している。(フロイス日本史)
キリスト教は一神教と呼ばれる種類の宗教で、特に当時のイエズス会派のキリスト教は、自らの神以外は存在を認めない姿勢が強かった。多神教と呼ばれ、どんなものでも祈りや信仰の対象とする日本の神仏信仰とは違い、彼らは自ら以外の宗教を絶対許容しない姿勢をとっていた。その教えに忠実でありたいとする大友宗麟、義統らの政策が上記のようになるのは自然なことかもしれない。
ただ当時の人々は、自分達の殿様がなぜそんな「神仏を恐れぬ行為」を突然し始めたのか理解できなかっただろう。当時、大友宗麟に関して、「学問をしすぎて頭がおかしくなったのでは」という噂が立ったという記述もある。
ただ統治者としての彼らは、もっと深刻に認識しなければならなかった。彼らのその行為が、彼らを支える勢力(家臣、地方勢力、水軍など)の大半が共有している価値観(神仏への信仰やそれに伴う生活風習)を真っ向から否定し、彼らの信頼を損なう行為だったということを・・・。
そして日向国侵攻の目的がキリスト教国の建国のためだとしたら、軍勢を構成する兵の士気が上がるはずもなかったことを。
ただでさえ、日向国侵攻に動員された諸将のうち筑前、筑後(福岡県)から動員された諸将は、遠く離れた日向国に大友氏の命令で従軍させられる身であり戦意に乏しかったのである。
このような宗教的、文化的な対立に原因を持つ、ギクシャクした関係を内包した大友の軍勢が日向国境をこえて、日向国に攻め込んだのである。