天正六年六月
島津忠長、征久、家久ら 石ノ城を攻む
(第一次石ノ城攻防戦)


第一次石ノ城いしのじょう攻防戦

日向国石ノ城にて反島津勢力が決起する

天正六年三月、伊東義祐の命を受けた伊東の残党により、高城に程近い石ノ城いしのじょうが密かに修復された。
修復される前の石ノ城は「廃城状態」だったと記録が残っている。
修復された石ノ城には長倉祐政ながくらすけまさ山田宗昌やまだ むねまさらが守将として入城し、守りを固めた。
この石ノ城には、真っ先に大友方に味方した三城(門川かどがわ城、潮見しおみ城、山陰やまげ城の3つの城のこと。左の地図の更に北にある)や、耳川南岸の水志谷みずしだに神門みかど坪屋つぼやから兵糧などが密かに輸送されていたようである。
この決起は、大友方の「うしろだて」を受けての組織的な軍事行動であることが明確である。

島津義久は石ノ城攻めを命じる

鹿児島にいた島津義久しまづよしひさは、石ノ城に長倉祐政ながくらすけまさが率いる伊東の残党が立てこもったという知らせを聞き、天正六年六月、石ノ城攻めを決意した。
島津義久は、島津忠長しまづただなが伊集院忠棟いじゅういんただむねを大将として、石ノ城を攻めさせた。一説によると軍勢は7000余騎であったともいう。(佐土原藩譜)

天然の要害ようがい

そもそも石ノ城は、天然の要害に囲まれた城である。石ノ城攻略に加わった島津征久の佐土原藩の記録には以下のように記述されている。
【石ノ城の背後の山】
石ノ城の背後の峰は高く、周囲の山も険しくいわおのように急斜面(この付近の山は土砂ではなく岩山である)であり、苔が生えて滑りやすい。
さらに、その山の中腹にはノコギリの歯のような「切所」があって行く手をはばんでいる。
また、石ノ城の背後の山は山深い米良の山々につながっているので、城の背後からは石ノ城に攻め寄せる道はない。
【石ノ城の前面・側面】
石ノ城の正面、左右の三方は、はるか下まで続く絶壁である。
その絶壁の下を流れる川(高城川:現在の小丸川のこと)は、白い波が岩に激しくぶつかるような急流で、所々が深くなっている。
この城は、たとえ守備兵がいなくても簡単にはたどり着けないような難所である。(佐土原藩譜)

石ノ城近くの小丸川。
現在は上流のダムの影響で、川の流れが止まっており、急流とは言えない。
実は、そのダムが作られている場所が、石ノ城があった場所なのである。
想像していただきたい。ダムを作る谷間の両側の山肌は、川の水面からかなりの高さがあり、岩盤がしっかりしていないとダムが作れない。
石ノ城は正にそのような堅固な絶壁の上に建つ城だったのである。
鉄砲を持った敵が待ち構えるダムの頂上に向かって、ダムの下から攻め登ると考えると、攻略の困難さが実感できる。
その絶壁の岩肌は写真から当時を偲ぶことが出来る

長倉祐政は島津勢の猛攻をしりぞけ、島津勢は佐土原城に撤退する

石ノ城の下を流れる川は、船を使うこともできないほどの急流である。天正六年七月六日、島津勢は急流の川を歩いて渡って石ノ城に猛攻を仕掛けた。
しかし、守将の長倉祐政の指揮のもと、伊東勢は地の利を生かして防戦し、少しも疲弊した様子を見せない。
攻城戦の最中、島津方は500余名の死傷者を出した。また、川上範久が討死し、島津忠長しまづただながも左腕を負傷してしまった。この状況を見た伊集院忠棟いじゅういんだたむねは諸将を集めてこう言ったという。
「この城は要害に守られており、守備兵も良く守っている。これは簡単には落ちそうにない。
ここは性急に攻めずに、しばらく様子を見て、はかりごとを用いて落とすべきである。
というのは、石ノ城を死守している守備兵は、去年討ち漏らした伊東義祐の家来であり島津方に対する恨みも深い。
そして今、日向国に侵入してきている大友の大軍の呼びかけに応じて、死ぬ覚悟を持って石ノ城に結集して立てこもっている。
人の和、地の利を得た敵に対して力攻めを行っても兵を失うだけである。よって、ひとまず撤退して、敵の油断を誘い、その虚に乗じて再び攻めるのが良い」
諸将もまたこれに同意する者が多く、島津勢は石ノ城の包囲を解いて、佐土原まで撤退した。(佐土原藩譜)

石ノ城の諸将に対する、大友義統よしむねからのねぎらいの手紙

緒戦の勝利に対して、大友義統よしむね(この頃の大友家の当主は大友義統であり、大友宗麟そうりんは隠居の身である)から石ノ城の防戦にて功績があった諸将に手紙が送られた。
−大友義統から米良めら四郎右衛門への手紙−
    このたび、石ノ城に攻めかかった敵に対して、勝利を得たことはめでたい限りである。
    結果として、敵が退却したことは予想通りであった。
    それぞれの働きに応じた褒美を与えようと思っている。こちらから援軍も送るので、待つように。
    石ノ城の状況報告には柴田治右衛門尉と吉水新助を連絡役として使うこととする。
    彼らと連絡を密に取り、遠慮せずに何でも言うように。
    山陰やまげ、田代、坪屋、水清谷、小崎の衆の働きにも満足している。
    役職を持っている者については、知行(領地)の増加はそれぞれの望みのままになるように申し付けておいた。
    さて、先ほど3、4人の者(部隊を率いた武将クラスを3、4人ということであろう)をそちらの援軍として出発させた。
    彼らが門川城に到着したら、真っ先に耳川南岸の島津方に味方する者達を討ち果たすように。
    繰り返し申し付ける。
    七月十六日 義統

−大友義統から山田土佐介への手紙−
    このたび、敵が石ノ城に攻めてきた際の防戦にて、勝利を得たことは素晴らしいことである。
    貴殿は初陣ういじん(初めての実戦参加)にもかかわらず、敵の槍や矢に当たって負傷する程に勇敢に戦ったと聞いている。
    その忠義心たるや、並ぶ者がないであろう。沢山の褒美を与えようと思っている。
    七月十七日 義統

島津義久は大友勢との決戦を覚悟する

天正六年七月二十日、島津義久をはじめとする諸将は、大友勢との決戦を覚悟した。島津義久は盟書を北郷時久に与え、起請文を書き、神仏に大友勢の撃退を誓っている。

<<高城川での最終決戦まであと4ヶ月>>


<総括>大友勢はまだ耳川の向こうにあり、遠いが・・・

島津方、足元を固めることに失敗する

大友勢が耳川を渡って南下して来れば、本格的な決戦は避けられない。島津義久としては、そのような事態になる前に足元で起こった火事(石ノ城の反乱)を消しておきたいところだったと考えられる。
しかしそれは果たせなかった。この時点では島津が日向国を制圧してまだ半年である。前述したとおり、日向国内ではまだ伊東の残党が活発に活動している状態であったと思われる。
その証拠として、旧記雑録の天正六年一月から九月頃の資料を見てみると、高城周辺の各所で反島津勢力、(ほとんどは在地の地侍[じざむらい]や伊東の残党であろう)が敵対してこれを鎮圧したという記述が見られる。
この当時の情勢を総括すると、以下のようになる。
日向国内には石ノ城の長倉祐政という「トゲ」が刺さったままであり、各地で島津勢と伊東の残党との小競り合いが続いている。一方、数万の大友勢は耳川の向こうで不気味に沈黙している。
つまり、島津方としては状況は非常に厳しい状況である。

伊集院忠棟の主張と孫子の兵法(蛇足です)

伊集院忠棟が撤退を促したときに説いた、「人の和、地の利を得た敵に対して力攻めを行っても兵を失うだけ・・・」という一節には孫子の兵法の影響が強く見られる。
孫子曰、      (孫子いわく、)
凡用兵之法、(戦闘の原則として、)
高陵勿向、   (高地に陣取った敵を下から攻めてはいけない)
背丘勿逆、   (丘を背にした敵を正面から攻めてはいけない)
      <中略>
鋭卒勿攻     (士気の高い敵を攻めてはいけない)
      <後略>
後世の付け足しか、本人の言葉かは不明であるが、なかなか面白い一節である。



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