天正六年八月
大友宗麟 宣教師を伴って無鹿に至り、
キリスト教王国建設に尽力す


キリスト教王国建設へ

土持親成との戦いにおける大友宗麟の命令

大友宗麟は、土持親成つちもちちかなりを攻める際に、遠征軍には、寺社仏閣を破壊するように命令していたようである。
この命令により、土持領(日向国の耳川以北の地域)では、戦闘により軍事施設以外にも寺社仏閣が破壊されていたようである。
フロイスの「日本史」によれば、彼らが大友宗麟に従って日向国(土持領)に入ったときには、土持氏の城や寺社仏閣が少なからず破壊され、宿泊する場所にも困る程であったと書かれている。
占領した耳川以北の土地の報告を受けた大友宗麟は非常に喜び、そこにキリスト教王国を建設することを計画して、この地に移り住むことを決意した。

キリスト教にまつわる大友軍内部でのわだかまり

しかしこの遠征軍に大将格で従軍していた田原親賢たわらちかたかのように、この破壊命令に必ずしも従いたくないと思っていた武将も多かったようである。
田原親賢は大友宗麟の妻の兄である。
その田原親賢の妹である大友宗麟の妻は、奈多八幡大宮司のむすめである。
そのような出自(神社の神主の娘)の彼女(奈多婦人)が、わが子である大友義統おおともよしむねや、夫である大友宗麟がキリスト教に傾いていくことを良く思わなかったのは当然で、ことあるごとに兄の田原親賢を頼って反キリスト教的な動きをしていた。
実はこのようなことが原因で、彼女はこの日向国遠征直前に大友宗麟から一方的に離縁(離婚)されていた。
その直後に大友宗麟は、前妻の奈多婦人の侍女で、敬虔けいけんなキリスト教徒であった女を妻にめとって、日向国に出発した。
この事が前妻の奈多婦人の更なる怒りを呼んだことは間違いない。
また、前妻の奈多婦人の兄である田原親賢自身もキリスト教には含むところがあった。
田原親賢は男の子に恵まれなかったので、京都の柳原家という公家の家から養子を貰い受け田原親虎たわらちかとらと名づけた。
田原親虎は容姿端麗で文武両道であり、父の田原親賢のみならず大友宗麟からも大いに将来を期待され、時が来れば大友宗麟の娘を妻として娶らせる話まで決まっていたらしい。
そのような田原親虎が、ある日偶然に訪れた教会で、キリスト教に心を惹かれたのである。
田原親虎がキリシタンになることは、父である田原親賢も叔母である奈多婦人も反対であったので、彼らは田原親虎が教会に行く事を禁じた。
また田原親虎がその禁を破って教会に行ったことが分かった後は、彼を幽閉ゆうへい(→軟禁状態にして勝手に外出などをさせないこと)してしまった。
それでも田原親虎の信仰心は衰えず、彼は密かに洗礼を受け、「シモン」という洗礼名を授けられた。
これに激怒した田原親賢は、ついに田原親虎(シモン)との親子の縁を切り、田原親虎(シモン)を田原家から追放してしまった。
田原家を追われたシモン(田原親虎)はこの後、同じく洗礼を受けた大友宗麟(→洗礼名フランシスコ)に従って日向国に入っている。

田原親賢と言えば、大友家の他の諸将が「ゴマすり」として軽蔑するほど大友宗麟に信頼されていた男である。そのような重臣でもキリスト教政策とぶつかる一面を持っていたのである。
ちなみに大友宗麟の前妻である田原親賢の妹の奈多婦人は、宣教師達からは「イザベル」と呼ばれていた。
「イザベル」とは、聖書に登場する、邪教徒でキリスト教に害をなした女性の名前である。宣教師達は、奈多夫人を悪妻という侮蔑の意味を込めてこの名前で呼んでいたらしい。(フロイス日本史)

大友宗麟は宣教師を伴って無鹿へ到着する

天正六年八月十九日、(フロイスによると八月二十四日か二十五日)に大友宗麟は船で日向国に入った。
彼は元来病弱の身であったので、豊後と日向の国境の険しい山道を越えることをせずに天候の良い日を見計らって船で日向国に入ったという。
日向国に入った大友宗麟(フランシスコ)には、前述した通り、フロイスをはじめとする宣教師達や、キリシタンの新しい妻、田原親賢に追放されたシモン(田原親虎)らも同行していた。
日向国に到着した大友宗麟は、早速「ローマにも聞こえるほどのキリスト教宗団」建設に取り掛かった。
このためには、ヨーロッパの法や習慣に根ざした政治をするために、この地域の生活習慣まで改める覚悟の取り組みであったとフロイスは記述している。
大友宗麟は今や日向国を「自分の国」と呼び、彼が滞在していた場所の地名を「ムシカ」と名づけた。
(フロイス日本史)
この地名は音楽(スペイン語の"musica"か?)という意味で、現在でもその地は「無鹿むしか町」という地名で宮崎県延岡市に現存する。

苛烈を極める寺社仏閣への破壊行動

上記のような覚悟の大友宗麟であったので、日向国における寺社仏閣や関係施設への破壊行動は、組織的かつ徹底的であったようである。
フロイスによると、この土地の寺社仏閣のうち、土持親成との合戦の後に地元民により再建された寺社仏閣も少なくなかったようである。
しかし、新しい統治者である大友宗麟の命令による破壊の対象となったのは、これらの再建された寺社仏閣や、大友勢に発見されずに破壊を免れていた寺社仏閣などである。
この破壊活動には、修道士の他、もともとこの土地で仏僧であった者で、今はキリシタンとなっていた者が指揮をとったと記述されている。
土地勘のある者(元は僧侶)が大友軍にいては寺院の位置を隠し通すことは不可能である。
かくしてこの土地の寺社仏閣はことごとく解体され、その木材や釘の一本にいたるまで回収、運搬され、教会建設の資材として使用されたという。
神仏の像がことごとく破壊されたことは言うに及ばない。(フロイス日本史)
さらにこの寺院の解体作業に従事させられたのは他ならぬその寺院の仏僧たちであった。一切の収入を失って、寺院や屋敷の解体作業、仏像の破壊に従事させられた彼らの心中はいかばかりのものだったであろうか。
大友記(管理人はこの資料はあまり信用していないが)には、大友勢が進軍する道に穴が開いていると、そこに仏像を投げ込んでそれを踏んで進軍したという記述や、柞原ゆすはら八幡宮(大分県大分市)に矢を一本献納すべきという進言を受けて、八幡宮に2、300本の矢を射たという記述もある。

このように、耳川以北の地では一大キリスト教化政策が行われていた。この作業にはポルトガル人宣教師なども従事し、一日中土を運んだり、畑を耕して種をまいたりしていたようである。
フロイスによると、そもそも大友宗麟がこの地に来る頃には、もともとこの土地に住んでいた住民は戦いに巻き込まれて死ぬか、別の土地に逃げていて、労働力が不足していたようである。

<<高城川での最終決戦まであと3ヶ月>>


<総括>開戦から半年だが、大友勢はまだ耳川を超えず

失われた5ヶ月間、大友勢は何をしていた?

大友勢が土持親成を攻めたのが天正六年三月で、この合戦に勝利して耳川以北を制圧したのが同年四月中旬である。
そして本章の記述はその勝利の4ヵ月後の同年八月下旬頃である。
この八月下旬頃は、島津勢が目に見えて劣勢だった時期である。
つまり、耳川の南側の高城付近の石ノ城に立てこもった伊東の家臣長倉祐政ながくらすけまさが島津勢の猛攻を一度退けたのが、本章の1ヶ月前の七月である。
また、この次の章で紹介するが、上野城(これも高城付近の城)に伊東の残党が結集して決起したのもこの頃である。
これらの反島津勢の活動の黒幕は、もちろん大友家である。
大友家は資金と共に人材を密かに耳川以南の日向国に潜入させ、地元の伊東の残党に呼びかけて島津家に反乱を起こさせていたのである。
そしてこの四月から九月の時期は、島津方はこれらの反乱に非常に手を焼いていた時期でもある。大友勢が耳川を渡って一気に南下するのにはこれ以上の好機はなかったのではないかと思える。
なのに、である。大友勢は土持親成を降して5ヶ月の間、耳川を渡って南下することはなかった。何をしていたのだろうか?
<推測1>寺社仏閣の破壊活動に専念していた?
フロイスなどの記述を読むと、大友勢は寺社仏閣の破壊活動に忙しかったのかもしれない。地元の住民を徴発しようにもほとんど残っていなかったということから考えても、破壊活動の担い手は兵士達であったかもしれない。しかも寺院の破壊は、従軍している兵士にしては「できればやりたくない」仕事であろうから、作業のペースも遅かったに違いない。また、寺社仏閣の破壊活動以外には特に進撃する命令も受けていなかったとすると、前線の諸将達は己の任務に対する疑問と不満を抱きながら5ヶ月間を鬱々うつうつと過ごしていたとも考えられる。
<推測2>農繁期で、軍勢の一部が帰国していて動けなかった?
旧暦の五月から八月は、現代の我々が使用している西暦に直すと、六月下旬から十月上旬である。農村は、ちょうど草取りや稲刈りなどで農作業が忙しい時期である。当時の九州地方は兵農分離があまり進んでいなかったので、従軍していた諸将も自分の領地の田畑が心配になる頃である。これらの理由で大友勢はこの時期に大規模な作戦を行えなかったのかもしれない。
<推測3>兵站線へいたんせん(軍事物資を運ぶ輸送路)が心配で動けなかった?
この西暦でいうところの六月下旬から十月上旬の時期は、九州地方は梅雨と台風の時期である。
豊後(大分)と日向(宮崎)の国境地帯は非常に険しい山道で、現在でも大雨や台風によるがけ崩れで、国道が不通になることがある。
昔の道路事情は桁外れに悪かったはずであるので、このように兵站線が頻繁に途切れた場合は日向国遠征軍は絶体絶命である。
また、豊後と日向の国境の山道が無事だったとしても、国境の南の耳川を超えて更に南下したならば、大雨で増水した耳川が兵站線を途切れさせる恐れもある。
上記はいずれも管理人の勝手な憶測に過ぎない。これらは今後傍証資料を探すこととする。

さて、いずれにしても大友勢は絶好の5ヶ月間を無為に過ごしてしまった。
この直後にようやく耳川を渡って南下を始める大友勢であるが、あと1ヶ月早く動いていれば・・・ということが、次章「島津征久 上野城を攻む。大友勢 耳川を渡ってさらに進撃す」、その次の章「島津征久 石ノ城を攻む(第二次石ノ城攻防戦)」を読んでいただければより理解できると思う。
大友の大軍が高城を囲む頃には、決起した伊東の残党勢力は・・・



佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間サイトマップ

耳川の戦い 高城の合戦メニュー 島津忠長、島津征久、島津家久ら  石ノ城を攻む(第一次石ノ城攻防戦) 島津征久  上野城を攻む。  大友勢  耳川を渡って南進す