天正六年 九月
島津征久、島津忠長、伊集院忠棟ら石ノ城を攻む
(第二次石ノ城攻防戦)


上野城が落城して、島津勢は石ノ城を攻略する

足利義昭あしかがよしあきからの密書

上野城が陥落したの日の4日前である天正六年九月十一日、五戒坊という者が毛利輝元もうりてるもとの命令により島津義久しまづよしひさのもとへ到着した。彼は、島津義久宛ての密書を持っていた。密書の差出人は足利義昭である。
当時、織田信長と関係が険悪になっていた足利義昭は、毛利輝元のもとに身を寄せていつの日か京都に帰ることを夢見ていた。毛利輝元はそんな足利義昭を支援して京都へ進出することを狙っていた。
毛利氏と大友氏は毛利輝元の祖父である毛利元就もうりもとなりの代から長年の間、筑前、筑後(福岡県)、豊前(大分県北部)をめぐって合戦を重ねてきた経緯を持つ。日向国侵攻に反対する大友氏の家臣斎藤鎮実さいとうしげざねが、「後方の毛利氏の危険性」を指摘したのはこのような経緯によるものである。
また、足利義昭を奉じて京都進出を企てた毛利輝元にとってみても、気になるのはやはり「後方の大友氏の危険性」であった。
この当時、毛利氏と大友氏がお互いの存在を危険視しつつ、お互いの反対方向(毛利氏は東の京都へ、大友氏は南の日向国へ)への進出を企てていたことは非常に面白い。
それはさておき、「後方の大友氏」に対する保障が欲しい毛利輝元は、足利義昭と謀って次のような内容の密書を島津義久に送ったのである。
「私は毛利輝元らと都に戻ろうとしている。諸国の武将は名誉のために呼応した。ただ、大友が毛利の背面をつくことを心配している。まず来年春に防長から、豊後、豊前(大分県)、筑前、筑後(福岡県)に攻め込もうと計画している。これを助けて欲しい。」
毛利の家臣小早川隆景こばやかわたかかげ吉川元春きっかわもとはるは同様の密書を伊集院忠棟いじゅういんただむね喜入摂津守きいれせっつのかみにも届けさせている。
このようにして島津義久は、同年七月下旬に書いた大友氏打倒の起請文に加えて、足利義昭の密書を受け取ったことにより、対大友戦の決意をますます固めたのである。
事実、天正六年九月十三日、島津義久は日向国野尻城まで出てきている。(この二日後、大友勢が耳川を渡り、上野城が落城するのである)

島津勢、島津征久しまづゆきひさを大将として、石ノ城に猛攻を仕掛ける

















現在の
石ノ城付近
天正六年九月十七日から十九日頃、島津征久しまづゆきひさを大将として、伊集院忠棟いじゅういんただむね、平田美濃守光宗、上井覚兼うわいさとかねらを副将とした1万の島津勢は石ノ城に攻め掛かった。
島津征久は、新納[にいろ]岳(尾鈴[おすず]山)の麓に、石ノ城と向かい合う城(砦であろう)を作り、さらに石ノ城の絶壁の下に足場を作って石ノ城攻略を開始した。
島津勢の攻撃を受けている石ノ城の城兵は、弓、鉄砲を激しく撃ち返し、少しも退かない。これを見た伊集院忠棟は、付近の山から大木を切らせ、これを運んで、石ノ城の下の川へ沈めて浮き橋を作らせ、馬が通れるほどの一本の通路を作った。島津方としては、これで兵の往来が自由になった。
島津勢は、石ノ城に向かって弓・鉄砲を散々に撃ち掛けた。矢や鉄砲の弾が城門、石壁、戸板、屋敷に着弾する音は、さながらひょうが降っているような、激しいにわか雨が降っているような勢いの音であった。(佐土原藩譜)

伊東方の挑発、「島津右馬頭」の人形

そんな乱戦の中、石ノ城城内から、鎧を着せられた奇妙な人形が石ノ城の塀の上に立てられた。人形の胸には、「島津右馬頭しまづうまのかみ」と書いてあるのが見えた。(→右馬頭は征久の称号であり、これは島津征久のことである)
最前線で戦っていた兵はこの人形を見て、「これは何だ?征久様を呪うためのものではないか」と囁きあって、城に攻めかかるのを躊躇していた。
そこへ島津征久が来て、前田備後(安藤備後)にどうしたらよいかを問うた。前田備後はすぐに答えた。「征久様、あの人形を弓で射てください。」島津征久は了承し、石ノ城のからめ手口(→裏口)の方角から馬に乗って、矢が十分届くところまで石ノ城に近づいた。馬上の島津征久は、弓の弦を口にくわえて、片手で矢を、片手で手綱を持っていた。
そして、島津征久は馬上で、矢の羽根が大きすぎるのを小刀を使って短く切りそろえた。(このときの小刀の傷が残っているくらは少なくとも明治維新の頃までは佐土原藩に伝えられていたようである。現在は分からない)
準備が整うと、島津征久は弓を十分に引き絞り、狙いを定めて人形を射た。
放たれた矢は見事に人形の真中を貫いた。
島津の諸将、兵卒は「当たった!当たった!」と声をあげて喜び、島津征久を称えた。(佐土原藩譜)

火の玉となった島津勢は、石ノ城を攻め立てる

島津征久が見事に人形を射抜いて、島津勢が歓声を上げたその時、前田備後が「見よ!今のは、征久公が敵を破って石ノ城を落とす前兆を示されたのだ!」と大声で叫んだ。
これを聞いた島津勢は一気に士気が高まり勇み立ち、一斉に山を動かさんばかりのときの声を上げて総攻撃の体制に入った。
反対に、石ノ城を守る城兵は静まり返っていたが、すぐにそこかしこの木の根の陰や岩陰から島津勢に対して矢弾を押しまず散々に弓、鉄砲を撃ち掛け始めた。
島津の兵卒は、鉄砲を構えて狙いを定めるような体勢をとって城兵を威嚇しつつ、鉄砲を構えたままの姿勢で石ノ城の真下の断崖の下に走り寄った。断崖の下にたどり着いた兵卒、諸将は、血気にはやる若い兵らと手を取り合いながら、はるか上の石ノ城へと続く断崖絶壁をよじ登り始めた。
彼らは、断崖をよじ登るために、いつもはわき腹の辺りにいている(さげている)刀を、邪魔にならない腰のあたりまで回して、足は爪先立ちになりながら、ツタやカズラにしがみつき、岩の出っ張りに手を掛け、何とか石ノ城の塀際まで登って行った。
石ノ城の塀までたどり着いた島津の兵のなかには、塀の銃眼(→鉄砲を撃つために塀に開いている穴)から島津勢を撃とうとして銃身を覗かせている鉄砲を手で奪い取る者もいた。また、塀を乗り超えて城内に乗り込み、城兵と渡り合い、刺し違えて死ぬ者あり、城兵の首を取る者ありと、島津勢は入れ替わり立ち代り猛烈に攻めつづけた。
乱戦の中、奮戦する島津忠長しまづただながが再び負傷した。(佐土原藩譜)

石ノ城は開城して、長倉祐政ながくらすけまさ、ついに島津征久に降る

石ノ城の城兵はもともと少数であったので、休む間もなく島津勢に攻め立てられ、心身ともに疲労が限界を迎えていた。更に城内では兵糧も欠乏していた。また島津勢に水の手を絶たれていたために、水不足にも大いに苦しんでいた。
このため、遂に天正九月二十九日、島津勢に対して和睦わぼくを申し入れてきた。
島津方の総大将である島津征久しまづゆきひさは、石ノ城の城兵が兵糧・水の欠乏により餓死するのを憐れんで、伊集院忠棟いじゅういんただむね、平田光宗、上井覚兼うわいかねさとと軍議を開き、和睦の申し入れを受け入れることを決めた。
島津征久は、和睦の使者として前田備後を石ノ城の城中に遣わし、酒や肴、弓矢を贈って城兵に対して礼儀を尽くした。
石ノ城方の総大将の長倉祐政ながくらすけまさは喜んで、城門の外まで前田備後を迎えた。島津方の礼儀に対して、長倉祐政も薙刀なぎなたを一柄献上し、その日のうちに城を出て豊後に退却した。(佐土原藩譜、鹿児島県資料旧記雑録後編1)

<<高城川での最終決戦まであと2ヶ月>>


<総括>石ノ城、決起から約7ヶ月間でついに力尽きる
         大友勢は間に合わず

ここでも遅すぎた大友勢の進出

決起から約7ヶ月間も持ちこたえていた石ノ城が落城したのは、天正六年九月二十九日頃である。これは上野城が、約1ヵ月の激闘の末に落城した日の14日後である。
大友勢は天正六年九月十五日に耳川を渡って南下を開始しているが、14日経過したこの時期になっても高城までは到達していない。このとき大友勢は耳川南岸沿いの浅付山に陣を張って動いていないのである。
耳川から高城までは普通に進めば1日程度の距離(約25キロメートル)なのだが・・・。
大友方の文献から推察すると、この後、大友勢が耳川南岸沿いの浅付山から更に南に進撃を開始したのは、恐らく石ノ城が落城した後の十月三日頃である。
さらに、大友勢が高城城下まで進んで高城を囲むのは、これから更に17日ほど後の天正六年十月二十日である。
逆に言うと、天正六年九月の間に島津勢は上野城、石ノ城と足元の反乱を鎮圧し、大友勢を迎え撃つのに十分な体制を整えるのに成功したと言える。

恐るべし!諦めていなかった長倉祐政

降伏した長倉祐政ながくらすけまさは途中まで島津勢に送られて豊後の方向に立ち去ったとされているが、彼はそんなことで諦める男ではなかった。
この後、長倉祐政は三納村に再潜伏し、島津方に対して新たな反乱の旗を上げるのである。次々に主君を見限って島津方についた伊東の諸将の中にあって、不撓不屈、忠義の士であると言って良いだろう。

大友義統おおともよしむねの手紙から読み取れるその後の長倉祐政の動向

石ノ城後の長倉祐政ながくらすけまさの動向が、大友義統よしむね(大友家当主。大友宗麟そうりんは隠居の身である)からの手紙から読み取れる。

−大友義統から米良四郎右衛門への手紙−
貴殿(手紙の宛先人である門川城主の米良めら四郎右衛門)は、出来るだけ早く浅付山(→耳川南岸沿いの山)に駐屯する大友陣に来るように。
というのは、浅付山に陣を張る大友勢に対して、さらに南に進撃するように急いで命令を出そうと思っているからである。
今度の折に必ず褒美を与えるので、とにかく浅付山の陣に付いたなら、すぐに南進する大友勢と同行するように。
長倉祐政にもこのことを申し伝えておくように。
十月二日 義統
この手紙は石ノ城落城から数日後の手紙である。
ということは、長倉祐政は休む間もなく高城包囲に向かう大友勢に加わったようである。


写真で見る石ノ城紀行



佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間サイトマップ

耳川の戦い 高城の合戦メニュー 島津征久  上野城を攻む。  大友勢  耳川を渡って南進す 大友の大軍  高城を包囲猛攻し、守将の島津家久、山田有信  これを死守す