天正六年十月
大友の大軍 高城を包囲猛攻し、
守将の島津家久、山田有信 これを死守す


大友の大軍がついに高城城下に到着し、高城を包囲する

高城川原、風雲急を告ぐ!

天正六年十月二十日、大友勢の先陣3万騎あまりが高城城下に迫り、近隣の民家に火を放ち、高城を大軍でとり囲んだ。
大友勢の先鋒の軍勢、その左翼の武将は佐伯宗天とその子3人である。彼らに従うのは三重、宇目、汐見、日知屋、廉川の兵である。
先鋒の軍勢の右翼の武将は田北鎮周らの田北一党である。彼らに従うのは筑後の星野、蒲池かまちの兵である。
先鋒の右翼の後詰にあたる軍勢の武将は臼杵鑑速と臼杵の一族である。彼らに従うのは宗像、田村、鶴原、服部、古庄、利光、犬神、奈田、日向の山毛、田代の兵である。
本隊は、日向新納にいろ岳(→尾鈴[おすず]山)の麓の名貫に陣を構えた。本陣は勝坂という場所である。
その他4つの陣があり、西の方山下にある陣を野頸のくび陣という。
東の方海辺に構えた陣を松原陣という。
本陣の左隣の陣を河原田陣といい、右隣を田原陣という。(管理人注釈:陣取りは文献によって異なり諸説ある)
大友宗麟おおともそうりんの陣は無鹿むしかにあり、日田ひた玖珠くす両郡の兵を旗本としていた。旗本の前軍は吉弘、吉岡である。
高城に布陣した軍勢には、後方の無鹿に本陣を張る大友宗麟が自ら命令を出していた。高城では既に戦端は開かれ、すぐにでも雌雄を決するような戦が始まろうとしていた。
高城の戦場は何と晴れやかな舞台であろうか。朝は大友勢の甲冑や刀や槍が朝日に輝き、夕暮れには旗や陣幕が夜風にゆれていた。
荒野の中にも少しの隙間もないほど美しい武具や馬具がキラ星のように輝き、炊飯の煙がもうもうと漂い、明け方に霜も降りないくらいである。
周辺に住む住民は、猟師や木こりにいたるまで残らず徴発されて、大友勢の荷駄を運んだりしている。
大友勢は、夜は一晩中かがり火をたいて警戒を怠らず、昼は見張りの兵を出して非常に警戒している。
高城城主山田有信やまだありのぶは大友の大軍が高城のまわりに満ち溢れているのを見て、鹿児島に急報をしらせる使者を走らせた。また同時に、隣の佐土原城にも急を知らせる使者を送った。
そもそも佐土原城主の島津家久しまづいえひさ中務なかつかさ)は日向方面の総大将であるので、高城に駆けつけて山田有信と一緒に城に立てこもった。
そのほか、吉利下総、都於郡とのごおり城主鎌田出雲守、比志島紀伊守らも高城に馳せ参じた。また、宮崎城主の島津豊後守忠朝は、その時飯野いいの城にいた島津義弘しまづよしひろのもとに居て高城に入れなかったので、代わりとして、重臣日置越後らが高城に馳せ参じた。
このように高城周辺の島津方の諸将は、皆が命を惜しまず高城へ結集し、高城を守る城兵は3000名にふくれあがった。(佐土原藩譜)

大友勢は高城に猛攻撃をかける。
島津家久しまづいえひさ山田有信やまだありのぶら島津の諸将は力を合わせて高城を死守する

ついに大友勢が高城に攻撃を仕掛けた。
高城の本丸は東、南、北は高さ20メートル近い斜面に守られており、唯一地続きの西側の尾根には数メートルの深さのV字型の空堀が七本も掘り込まれている。
高城の本丸を守る東、南、北の斜面の下には「下栫」(→『したのかこい』と読むのか?恐らく木で組んだバリケード状の障害物であろう)と呼ばれる障害物がぐるりと並べられている。
更に「下栫」の300メートルほど外側の平原を「外垣」(→『とのかき』と読むのか?)と呼ばれる囲いで囲んでいた。
この最も外側の「外垣」に囲まれた平原部分を「外垂」(→『とのたれ』と読むのか?)と呼び、高城防衛の最前線としていたようである。(勝部兵右衛門聞書)

早朝六時すぎに、大友の大軍は、まず一番外側の「外垣」に殺到し、あっという間に「外垣」を破り「外垂」に進入した。そして高城本丸のすぐ下の「下栫」まで殺到した。大友勢は「下栫」に火を放ちすべて焼き払ってしまった。
高城を守る武将達は、日向国中から馳せ参じた勇敢な者達であるので、力戦奮闘して「下栫」から上に大友勢を上らせまいと必死の防戦である。高城を守る武将のなかには、勇敢にも大友の大軍が満ち溢れる「外垂」に打って出て戦う者もあったが、すぐに大友の大軍に取り囲まれて討ち取られてしまった。
このような高城城兵の頑強な抵抗に、さしもの大友の大軍も攻め疲れたのか、いったん攻撃をやめて少し退却した。
今や高城城下の囲いはすべて破壊されて広々とした平原となっており、残るは高台の上に建つ高城本体だけである。高城の城兵は3つの城門を硬く閉ざして、鉄砲数百丁をそれぞれの方向に構えた状態で大友勢の攻撃に備えた。
その日の正午過ぎに、大友勢の新手が高城に攻めかかった。攻める大友勢は数千丁の鉄砲を構えて進み、高城城下の平原から台地の上に建つ高城に向けて一斉に発砲した。
しかし大友勢の鉄砲は、下の平原から台地の上を狙って撃ち上げる形になるために、台地の上で伏せて隠れる島津の兵にはまったく当たらない。反対に高城の城兵は、高城城下近くまで大友勢を引き寄せて、狙い済ました鉄砲の射撃を加え続けた。
いまや、高城の下の平原である「外垂」は大友勢の血の海と化している。大友勢は再び攻撃をやめて退却した。
しかし、あきらめない大友勢は、その日の午後六時すぎに3度目の攻撃を開始した。
大友勢は、山を動かさんばかりのときの声を上げて高城の下に殺到した。鉄砲の銃撃もさらに激しく、高城の土手に鉄砲の弾が当たる音はどしゃ降りの雨の音のようであった。
しかし高城を守る諸将の中には、勇武知略を兼ね備えた島津家久しまづいえひさ(中務)や、剛勇で知られる山田有信やまだありのぶがいる。
彼らは一致団結して大友勢の攻撃に臨機応変に対処し、負傷者をあまりだすこともなく、この日3回に及んだ大友勢の攻撃を防ぎきった。
島津家久、山田有信ら諸将の力量のおかげであろう、大友勢の猛攻を受けても、高城の城中は常に落ち着きを保っていたという。(勝部兵右衛門聞書、佐土原藩譜)

地を震わせる南蛮渡来の「国崩くにくずし」

そのような戦いの最中、高城を守る島津の将兵が、高城の近くの野久尾のくび陣(←高城の北東に位置する大友陣)に奇妙なものを発見している。
島津方の文献には「大鉄砲」と記されているが、これは大友氏の所有する南蛮渡来の大砲(国崩くにくずし)とみて間違いない。
高城を守る島津の兵はその大砲を見て、「どうなるものであろうか?」と思っていたが、発見したその日も、次の日も、全く撃ってくる気配がなかったようである。
そんな、両軍ともに動きがない静かな日、昼の2時過ぎに大砲がいきなり火を噴いた。
その轟音と着弾の衝撃は高城の大地を震わせ、高城本丸部分のやぐらの下の空堀を破壊した。
また、高城内の倉のはり(←天井部分の一番太い横木)を貫通して破壊し、そのままえのきの大木に激突した弾丸もあったようである。
しかし砲撃はその後は行われなかったようである。

急報を聞いた島津義久しまづよしひさが援軍を派遣

数日後、島津義久は急報に接し、北郷時久に救援を命じた。北郷時久は、相久、忠虎の2人の子供と共に出陣して、鬼山を経て宮崎城に宿営した。

<<高城川での最終決戦まであと22日>>


高城全体図 模式図

高城は、高城河原の平原に岬のように突き出した台地上の地形全てである。
@外垣[文]最も外側の囲い
A外垂[文]外垣と下栫の間の領域
B下栫[文]高城直下の囲い
C本丸[踏]約4つの階層を持つ
DV字空堀[踏]7重に掘り込まれた空堀
突出した岬を切り離すようなイメージで掘り込まれており、7本中4本がはっきり分かる状態で現存する。現在でもくっきりとV字形の溝が残る。
−凡例−
[文]:文献にある記述を元に作図
[踏]:「宮崎県児湯郡木城町教育委員会 高城址」と管理人が実際に踏査した結果から作図
−解説−
V字空堀の深さは、現在でも深いもので1.5メートル以上あり、幅も2メートル以上あるものもある。
尾根の通路(空堀で遮断されている)は、現在は舗装されて軽自動車が通れるほどだが、当時は荷駄車がやっと通る位の道幅だったと思われる。
さらに7重の空堀の背後には、それぞれ島津勢の鉄砲隊が待ち構えていたものと考えられる。
西の尾根伝いに攻める攻め手は、狭い道幅に阻まれて力攻めができない。
西の尾根伝いの道。
第四、第三空堀の地点。
見えている橋は空堀にかけられている橋である。もちろん当時は橋などはない。
これでは力攻めは不可能である。
後年に九州征伐にやって来た豊臣勢を相手にしても落城しなかった理由も分かるような気がする。
→写真で見る高城紀行 その一(高城全体)へ
本丸部については次の図を参照。

高城本丸部 構造図

@外垂エリア[文]
A下栫[文]
B第一階層曲輪くるわ[踏]
C、C'第二階層曲輪[踏]
D、D'、D''第三階層曲輪[踏]
E第三、第四階層を結ぶつづら折れ状坂道の踊り場部分[踏]
F第四階層(本丸部分)曲輪[踏]
G第二空堀、G'第一空堀[踏]
Hすぐ隣の山の斜面[踏]
[A]空堀の中にあるので公園整備で作られた道か?[踏]
[B]本丸部分から第三階層へ下る坂道(一番広く傾斜ふつう)[踏]
[C]本丸部分から第三階層へ下るらせん状の坂道(一番狭い。人が一人しか歩けない程)[踏]
[D]第三階層から第二階層へ下る坂道(狭く傾斜非常に急)[踏]
[E]本丸部分から第三階層へ下るつづら折れ状の坂道[踏]
[F]第三階層から第二階層へ下る坂道(やや狭く傾斜きつい)[踏]
[G]第二階層から第一階層へ下る坂道(やや狭く傾斜きつい)[踏]
[H]城外(外垂)へ下る坂道(やや狭く傾斜きつい[踏]
[I]この道も公園整備で作られた道と思われる[踏]
−凡例−
[文]:文献にある記述を元に作図
[踏]:「宮崎県児湯郡木城町教育委員会 高城址」と管理人が実際に踏査した結果から作図
→写真で見る高城紀行 その二(高城本丸)へ


<総括>大友勢はついに高城攻略を開始
         島津家久、山田有信はこれを死守

高城を包囲した当初の大友勢の動き

高城の平原に到着した大友勢は、高城を囲むように布陣して、1日に3度もの攻撃を仕掛けたようである。
大友勢は、日向国に入ってからはここまで負けなしで進んできているので、この高城も一気に揉みつぶすつもりだったのだろうか?確かに、高城に遠征してきた大友の諸将達を見ると、軍略家の角隈石宗や、重臣の田原親賢、斉藤鎮実、佐伯宗天・・・といった、そうそうたる顔ぶれである。大友勢が必勝を信じたのも分かるような気がする。
ただ、当時佐土原城主だった島津家久しまづいえひさについては、大友方からも一目置かれていたようで、それなりの覚悟をもって高城に攻め寄せたようでもある。
大友宗麟や大友義統のそば近くにいたポルトガル人宣教師のルイスフロイスが書いた「日本史」にも、『薩摩国主の兄弟「ナカズカサ」が諸国からの精鋭を率いて守っていた』という記述が見られる。この「ナカズカサ」は、島津(中務)家久のことである。
余談であるが、このフロイスの「日本史」を読むと、当時の武将達が実際にどのように呼ばれていたかが分かる。つまり、当時の呼称が漢字ではない表記で記述されているからだ。
一端を紹介すると、伊東義祐いとうよしすけ三位殿さんみどのと呼ばれていたようである。(もっとも、「日本史」には『サミドノ』と書かれているようである。『サンミ』と聞き取れなかったのか、本当にそのように呼ばれていたのかは分からないが)
田原親賢たわらちかたかは、『タワラノチカタカ』、大友は『オオドモ』と書かれている。もしかすると、当時は「大友」も、近江の浅井あざい氏のように、「おおとも」ではなく「おおども」と濁音で呼称されていたのかもしれない。濁音で呼ぶのは戦国時代の流行りか?今となっては分からない。
高城に話を戻そう。初日から力攻めで攻め寄せる3万以上の大友勢と、高城を死守する島津勢の戦いは始まったばかりである。この日から高城城兵の苦しい篭城戦が始まるのである。


写真で見る高城紀行
その一(高城の遠景と尾根伝いに高城に入る風景)

→写真で見る高城紀行 その一へ



佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間サイトマップ

耳川の戦い 高城の合戦メニュー 島津征久、島津忠長、伊集院忠棟ら 石ノ城を攻む(第二次石ノ城攻防戦) 高城の守備兵  疲弊するも高城の守りを緩めず