実は、日向国では九州地方の近世史を考える上で大きな意味を持つ合戦がいくつも行われています。
「木崎原の合戦」後には島津氏が三州(薩摩+大隈+日向)統一に本格的に動き出しました。
「高城(耳川)の合戦(大友-島津戦)」後には九州の軍事バランスが大きく崩れ、九州地方の全域が本格的な戦国状態となりました。
そして最後に「高城の合戦(豊臣-島津戦)」で島津氏が敗れて九州の戦国時代が終わりました。
日向国を舞台として、九州戦国時代の時代の流れが大きく変わったのです。
この合戦記を書くにあたっては管理人なりに、できうる限りの文書、文献を読んで裏付けを取って「事実(と考えられること)」のみを書くようにしています。
また、各文献の「どうもあやしい」と思われる部分については、そのような注釈付きで紹介するようにしています。
一応、「歴史学」を名乗れるレベルには保ちたいなぁと。決して歴史小説ではなく・・・(笑)。
有名な「釣り野伏せ」で島津勢が勝利した「耳川の合戦」の主戦場は耳川ではない。主戦場は宮崎県児湯郡木城町にある、高城城下の高城川(現在の小丸川)である。
耳川は宮崎県の県北を流れる川であり、高城川から20キロ近く北を流れる川である。
私のような地元の人間は、高城城下の高城川(現小丸川)の川原で行われた合戦が、「耳川の合戦」と呼ばれると、土地勘があるだけに混乱してしまう。(下図参照)
「耳川合戦」という名前は、『大友記』(江戸時代に書かれたとされる文書)という文献に出てくる。
私の推測は、大友記の「耳川合戦」という呼び名が広く知れ渡ったことにより、現在の呼び名の多数派に落ち着いているものと考えている。
しかし、大友記の中において、「耳川」として記述されている川は明らかに高城川(現在の小丸川)の誤記である。(高城城下での決戦場に流れている「高城川」を「耳川」と記述している)
大友記の筆者はその誤記に基づいて、この合戦を「耳川合戦」と呼んでいるようである。これは本来ならば「高城川合戦」と呼ぶべきである。
文献中に見られる地名の誤記はこれだけではなく、大友宗麟が本陣を張った日向国の「無鹿」について、「大隈国ムシカ」(→大隈は現在の鹿児島)との誤記も見られる。
どうやら、この大友記の筆者(もしくは筆者に合戦の伝承を伝えた人)は、日向国(現在の宮崎県)にあまり土地勘がない人間のようである。
もっとも、大友側の記述があやふやなのも仕方がない事なのかもしれない。異国の地である日向国で敗戦の憂き目に遭い、混乱の中で命からがら逃げ延びたのであるから・・・。
一方で、「耳川合戦」という呼び名も”全く見当違い”という程でもない。つまり、合戦の成り行きが「耳川を渡って進撃した大友勢が高城を囲む。→高城川原で決戦、大友勢壊滅。→島津勢がそのまま耳川まで大友勢を追撃」という成り行きなので、この合戦を「耳川の合戦」と呼べなくもない・・・。
(ただし、大友記の著者はその肝心の耳川までの追撃戦については触れていないのでフォローにならないのだが・・・)
ちなみに島津家に関係する文献では、「耳川合戦」という記述もあるのだが、「高城の役」、「高城御合戦」、「高城御陣」などといった「高城・・・」と呼び方が多数派である。
この合戦に従軍していた人々が文献の中で「高城・・・」という呼び方をしていることからも、私は、この合戦は「高城(川)の合戦」と呼ぶべきであると考えている。
この合戦の最大のハイライトである高城川付近での戦いは、よく物の本で「精強な島津軍が、ハリコのトラの大友軍を"釣り野伏"戦法でコテンパンに・・・」的な紹介をされている。
これは完全な間違いとは言えない。でもそれは例えるなら、「サッカーの試合のゴールシーンの数秒だけを見てその試合の全体像を語る」ようなものではないだろうか?
ここでは、最終決戦場である高城の川原に至るまでの大友と島津の戦略はどのようなものだったのか、という俯瞰的な視点も織り込みつつ、最終決戦の高城川原での合戦も、具体的に描写されている文献を元に検証を行う。
当HPは私が書き散らす「歴史小説」のHPではなく、史実をお伝えするHPです。
よって、記述については私の個人的な脚色は加えずに、あくまで古文書を現代語訳する形式で記述します。
文中に出てくる登場人物のセリフもすべて古文書に見られる記述を現代語訳したものに限っており、私の脚色で追加したセリフはありません。
たとえば高城合戦のハイライトである場面の島津家久のセリフ『典厩、大友の大軍に臆したか?!』のセリフも、原文の『典厩、気ヲ大軍ニ奪ハルルヤ』の現代語訳です。
ただし、古文書とはいえ、記述内容が怪しいものから正確と思われるものまでピンキリです。ここで紹介する古文書の記述は、私なりに裏づけが取れた、「正しい」と思われる記述を厳選したものです。
その意味では私の恣意が入っていないとは言えませんが・・・