西国光り物の事−江戸初期 未確認飛行物体事件−

『日向動変記事』(日向郷土資料集所収)より管理人が現代語訳

西国光り物の事  このボタンから本文中に出てくる地名を示した地図が表示されます。


承応元年9月8日(西暦1652年10月9日)午後八時頃、三納村の上空に、西の方から東の方へ大きな大きな光る物体が飛んだという。

その大きさは、直径が5,6尺(約2メートル)ほどで,形は大きな壷の、口を後ろに、底を前にした様な格好で、後ろに5尺(約1.7メートル)ほど火を引いており、その火花はチカチカと燃えていた。
物体は高い所では高く飛んだと言い、低いところでは低く飛んだと言い、村々でいろいろな見え方をした。また、見える大きさも場所によっていろいろ違っていた。同じ村でも遠くに見えたという人もあり、近くに見えたという人もいて、20町(約2キロメートル)ほども離れていたという人もあり、1里(約4キロメートル)ほども離れたところを飛んだという人もいた。
同じ屋敷の中でも熱く感じられたという人もあった。10人見れば10人の見方、100人見れば100人の見方と、それぞれ異なっていた。

まず三納村での見え方である。同じ村の中なので、そんなに見方が変わるはずはないのであるが、光る物体が太くなったときには近く見え、小さくなったときには遠くに見えた。その光る物体が通った時には、昼のように明るくなった。戸口が開いた南向きの家では、家の中の人を見分ける事ができる程の明るさであった。これは三納村での様子である。

三納村から南に3里(12キロ)ほど離れた佐土原では、光る物体は南の方に見え、さらに10里(40キロ)ほど南に離れた飫肥からも南の方に見えた。光る物体の遠近大小は同じようにばらばらであった。

光る物体が三納村の上空を飛ぶ時は、東南東に音がした。初めの一つは石火矢が飛ぶような音が聞こえ、二つ目は少し小さく聞こえ、次は少し小さくどろどろと雷のような音がして、次第次第に音が小さくなっていった。最後は、火で焼いた鉄を水の中に入れたような煮えたぎる音がして、次第次第に収まった。これも三納村でのことである

佐土原の人々は、鬼築女(現新富町)の沖合いに雷が鳴ったように聞こえたと言った。又、清武、飫肥の沖合いに雷が落ちたとという噂も聞いた。いずれもはっきりしたことではない。

薩摩(鹿児島県)でも光る物体は、西より東へ飛び、音は東で鳴ったということである。光る物体の大小、遠近は同じような感じで、どの国でも南に見えたという。

また細島(宮崎県細島)では、西から飛んできた光る物体は細島港の上空を一回りして東に飛び、音もしたという。

さらに、ビロウ島(志布志湾の小島)の近辺で船に乗っていた人も光る物体を見たといい、大きさは直径9尺(約3メートル)の洗い桶の様な光る物体が飛んできたかと思うと、ビロウ島より東に5町(500メートル)ほどの海の中に落ちたのが見えたと言った。その時、音は海面より30尋(約45メートル)ほど上で鳴ったかと訊ねると、波が荒くなって船が転覆しそうで心細く、呆然としていたので分からないと言った。

また、同日同時刻に四国路の伊予の西海岸(四国路三帆)で船に乗っていた人は、光る物体は見ないが、雷は聞こえたと言った。これで、光る物体が海に落ちた事は確実である。

京都、大坂の人に聞くと、同日午後9時過ぎ頃、天目茶碗のほどの光る物が西から東へ高く飛んだと言った。
さらに、三納村の人で、伏見より川舟で下るときに、同時刻に光る物が西から東に飛んだのを見たと村に帰ってきて語った。

そうであれば、海に落ちた残りが上方に飛んだのであろうか。三納では午後8時頃、上方では午後9時過ぎ頃ということであれば、時刻は同じ頃である。

老人にこのような光る物を見た事があるかと聞くと、「見た事がない。これが始めてだ」といった。


解説と検証

そもそも「ひかりもの」とは

まず、通常古文書において「ひかりもの」という言葉の意味は「流れ星」のことである。
よって、この古文書に書かれた内容も流れ星のことであると片付けられなくもない。ただし、管理人は以下の点で疑問が残る。

疑問一 そんな大きな流れ星ならどこかに大被害が・・・

直径2メートル、長さ1.7メートルの大きさに見える程の大きな流れ星が地球に落ちたらかならずどこかに大被害がでているはずである
ビロウ島の近くの船上で光り物を見た人が言うように、「波が荒くなって船が転覆しそうで心細く」なるほどに大きな流れ星なんて・・・(ちなみに鹿児島にはビロウ島と呼ばれる島が3つあるようだが、この記述がどのビロウ島なのかは分からない。どのビロウ島も沿岸部の島である。)
これらの記述では日本よりも南東の海上に飛び去ったようであるので、フィリピン・ニューギニア・グアム・サイパン・トラック諸島辺りで巨大隕石の落下による大津波が起こっていても不思議ではない。
また、これほど大きな天文現象は、琉球王国や、中国の王朝の記録に出て来ない筈がない。
まずはこの点において、別の資料を当たってみて記述がないか調べねばなるまい。
ちなみに管理人が、年代順に色々な島津家の文書をまとめている旧記雑録後編で、この年の文書をざっと調べてみた。
すると、この年は琉球王国(沖縄県)の使節が島津家を訪れていたらしく、琉球の使節の応対に追われる文書はたくさん残っているが、「ひかりもの」に関する文書は発見できなかった。
こうなれば琉球王国とか、別の資料を調べねばなるまい。できれば東南アジアの歴史に関する本も・・・。

疑問二 本当に流れ星なのか?・・・

上記の本文を読んでの通り、彼らの言い分をすべて正しいとすると、「ひかりもの」が流れ星らしからぬ様子であったことが分かる。
まず、三納村の記述「光る物体が太くなったときには近く見え、小さくなったときには遠くに見えた。その光る物体が通った時には、昼のように明るくなった。戸口が開いた南向きの家では、家の中の人を見分ける事ができる程の明るさであった」
にあるように、家の中まで明るく照らすほどの流れ星、大きくなったり小さくなったりする流れ星なんて、聞いたことがない。電灯もない昔は、夜は真っ暗闇であろうから少しは明るく感じられるかもしれないが、「昼のように」は明るくならないであろう・・・
また、色々な音がしたという記述もあり、音の種類が聞き分けられるほどの音がする流れ星も聞いたことがない。
極めつけは細島の記述「細島港の上空を一回りして東に飛び、音もした」という記述。もう、ふざけてるのかと言いたくなる記述である。でも文書の著者は大真面目である。最後のまとめで著者なりに光り物の推理をしている。


この記事に対するご指摘をいただきました!!ありがとうございます!!

東亜天文学会のW様よりいただいたご指摘の内容です

概要

承応元年光り物についてはUFOなどではなく、大流星に間違いないと思われる。

論証1 明るさについて

夜間に昼のように明るくなる大流星は決して存在しないものではない。
「昼のように」といっても程度がいくつかあるが、満月より明るい大流星は決して珍しいものではない。
「昼のように地を照らす」大流星の江戸時代の記録は多くある。

論証2 大きさについて

現在の日本人についてもかなり同じだが、空間の大きさを表す際に長さを用いることがある。
対象までの距離が分からなければ、対象の大きさを長さで表現することはできないはずだが、古文書では、ままそのような表現に出会いうことがある。
現在では、通常は空間の大きさを度で表す。(角度の度を用いて表す、たとえば太陽のみかけの直径は約30分。つまり1度の半分)
しかし、江戸時代やそれ以前の天文現象に関する記録では、空間の大きさを長さの単位で表している。
たとえば「一尺」とか「一間」などであるが、この換算としては通常は「一尺」は角度の1度とみなされる。(研究者により換算値は異なることがあるがほぼこの程度)
なので、本文中の「直径が5,6尺」は直径がおよそ5〜6度に見えたということになる。
月の見かけの径が太陽と同じ30分なので、月の大きさの10倍ほどに見えたということになる。
月の大きさは案外小さいもので、(実際に月を見ると分かる)そんなに空を覆うほどの大きさではないということになる。
これは、大流星が地球大気でフラッシュした際にその輝きが数度の広がりに見えたということだと考えられる。

論証3 その他文献での同時記録例

W様の収集史料に以下の1例があった模様。
「拾集物語渡辺玄察日記」肥後文献叢書4(昭和46.9、歴史図書社刊)
「(承応元年九月八日)此年之九月八日いぬの下刻に西より東へ火飛ふ」
ただしW様の換算ではこの月日のグレゴリオ暦日は1652年10月10日になるとのこと。
おそらく素人である管理人の換算が間違っている模様。(汗)

論証4 音について

雷のような音は同時にしたのではなく、しばらくしてから聞こえた衝撃波と思われる。
現在の大流星や隕石落下などでも、ときどき報告例がある。
衝撃波の音はほぼ音速で伝わるので、流星が見えて(光が伝って)から時間をおいて聞こえる(音が伝わる)ので、「雷のように(光との時間差で)音が聞こえた」という表現は現在でもされることがある。
同時に聞こえる「石火矢のような音」については不明である。
しかし現在の流星でも、流星の出現と同時に「ぱちっ」というような音がしたという報告例が多く存在する。
流星は、通常は地上80キロメートル程度の位置での現象(隕石もしくは大流星の場合もっと低いところまで見えていることもあるが)なので、音が光と同時に聞こえる(到達する)ことはないはずである。
ただし、この「ぱちっ」という音の報告例は多く、一部の見解によると、『光速と同じ速度で伝わった電磁波が地表の森など、ある特殊な条件下で共鳴現象を生じ、それが音に変換されて聞こえる場合があるのではないか』という見方もある。
最後の「じゅっ」とでもいうような音についてはよく分からない。

論証5 人々による見え方の違いについて

多くの人が同じ流星を見たときに、「案外遠い」「某家の木の下を通った」などの例がある記録があるように、人の観察眼は案外あてにならず、あいまいなことが多い。
文中の一人が、光物がクルリと一周したような供述をしているが、おそらくは、大流星が西から出現し、これを目で追っているうちに体勢が南か北を向くような姿勢になり、その後さらに体勢を東に向けて一周させながら目で追った結果、光物がクルリと一周したような気がしたのではないかと推測される。
または、このあたりの口述が又聞きされる中で「頭上で一周した」といった内容になったのかではないかとも考えられる。

論証6 このときに隕石は落下したのか

この事件は、大流星で間違いないと思われるが、この明るさなら隕石になるかならないかというボーダーライン上であると思われる。
隕石になる程の大きさの流星の場合、夜ならもちろん真昼のような明るさ、昼間なら昼でも見えたりする明るさである。
この件については、落下していたとしても海の上と考えられ、地表に落ちていることはないと考えられる。
この程度の明るさの大流星が隕石として落下した江戸時代のケースでは、隕石の重さが10キログラム程度で、地面に6尺ばかりもぐる程度(例、新潟県米納津隕石1837年)である。

管理人 謝辞

専門家としての見解を、大変詳しく、噛み砕いてご説明いただきました。
ありがとうございました!!
ひとつモヤモヤが晴れた気がします!!!

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