本編大友勢 日向より去り、島津氏日向国を完全に掌握すで見たように、
高城川原での決戦に敗れた大友勢は、豊後国への地獄の逃避行を強いられた。
ここでは、その逃避行中に起こったと記録されている出来事を紹介する。
以下、大友興廃記、豊薩軍記より。
奈多鑑基(原文には奈田鑑元とあり)という者は、奈多八幡の宮司であり、神仏に対する信仰心を保ち、いつでも慈悲の心を忘れない人間であった。
その奈多鑑基が、高城での敗戦後に、佐伯宗天配下の侍である杉谷帯刀を伴って豊後へ退却する道中のことであった。
杉谷帯刀は、奈多鑑基の兜の上に、丸い形の霧のような物があることに気がついた。当の奈多鑑基本人は、まったく気がついていないが、さらにその霧の中を見ると、霧の中に甲冑を身にまとったような姿がかすかに見えている。
杉谷帯刀は、これは摩利支天(→仏教上で”天”と呼ばれる、仏の眷属の一人)のお姿に違いないと思った。
その後、一行がいまだに日向国から脱出できずにいるときに、道に迷ってしまった。
一行は、そそり立つ高さの岩壁の上に山伏(→山野で修行している人)が一人いて、護摩を焚いているのを見つけた。
すると、もう一人の山伏が岩壁の下に硯を持って現れ、上に向かって硯を差し上げたと思うと、岩壁の上に居る山伏がその硯を使ってお札を書いた。
その山伏が奈多鑑基に向かってこう言った。『大友宗麟の配下の者達が、このたびの合戦において敗北を喫したことには理由があるのだが、まずは早く本国へ帰りなさい』
それに対して奈多鑑基が『わかりました』と答え、気がつくと豊後国の臼杵の町に到着していた。
奈多鑑基は、山伏と出会った方向に向けて手を合わせて感謝し、臼杵の陣所に帰陣した。神か天狗の仕業であろうかと皆は話し合ったという。
(大友興廃記、豊薩軍記)
奈多鑑基は、大友宗麟の正室(→第一婦人)の父であり、高城合戦にも参戦している田原親賢(紹忍)の父でもある。
しかし、大友宗麟はキリスト教に傾斜していくに従い、奈多八幡の宮司の娘である正室(奈多婦人:イザベル)が疎ましくなり、高城合戦の前には離別している。
このような経緯から、彼らは大友家中において、角隈石宗と並ぶ「反キリスト教勢力の筆頭」としてあげられることが多い人物である。(事実、宣教師の残した記録における彼らの酷評振りはすさまじい)
→このときの大友家中でのわだかまりは、本編大友宗麟 宣教師を伴って無鹿に至り、キリスト教王国建設に尽力すを見ていただきたい。
杉谷帯刀(すぎたにたてわき か?)という人物の名前は、大友興廃記の別の箇所に出てくる。
”杉谷帯刀”という名前は、高城川原での決戦時に佐伯宗天が島津陣へ突入する際に、自陣の守備隊として残した武将名の一覧の4番目に見られる。
彼は佐伯宗天とともに突撃しなかったので生きて高城川原を脱出できたのかもしれない。
また、一覧の4番目に名を連ねていることから、身分もそれなりに高かったと考えられる。
奈多鑑基の息子である田原親賢は、高城合戦において積極的に戦わずに、いち早く退却したとされている。
また、父である奈多鑑基がこの行動に同調したのは間違いないと考えられる。
この「積極的に戦わなかった」理由は本編運命の決戦前夜の総括にて推定したとおり、
@戦闘開始はあくまで一部の主戦派(田北鎮周)らの独断によるものであったこと
A田原親賢本人は、前日に結んだ島津側との和平を主導していたこと
が考えられる。
ただし、高城合戦の大敗北という結果を受けて、この態度は他の大友の諸将の大きな反感を買っていた。
かなり意地悪な、うがった見方をすると、この一連のエピソードは、その反発をかわす目的があったのかもしれない。
本編大友勢 日向より去り、島津氏日向国を完全に掌握すで見たように、敗戦の憂き目に会った大友の将兵は、今回の敗戦の原因を、大友宗麟が行った寺社仏閣への弾圧への天罰(仏罰)と感じていたようである。
これは、神仏への信仰を持っていた当時の大多数の日本人にしては当然の感情であろう。
また、そのような軍中にあっても、「神仏への信仰を忘れない人間である、奈多八幡の宮司である奈多鑑基が、神仏の助けにより生還した」というのは、「やはり神仏を大事にしなければ駄目だ」という主張が込められた象徴的なエピソードであると言える。
私はこのエピソードが「真実か否か」について追求する気はないが、このエピソードが大友家中における宗教的価値観の動揺を示すひとつの資料として興味深いとは感じている。