その一 謎の上野城(穂北城)合戦
上野(穂北)城合戦は実在の合戦か?


検証【1】 そもそも上野城合戦は本当にあったのか?

まずは本文を読み進める前に、一般に、上野城とは穂北ほきた城の別名とされていることをご認識いただきたい。
さて、天正六年八月十九日から同年九月十五日の間に行われた上野城(穂北城)における合戦の具体的な様子は、佐土原藩譜、穂北地方の伝承(穂北 穂北史談会 著)として今に伝えられている。
本編の記述は佐土原藩譜の記述を現代語訳しつつ、穂北(穂北史談会 著)の記述と照らし合わせながら記述した。
しかしながら、この上野城攻めを記述した文献は少なく、この戦いは、ほぼ世間に認知されていない戦いと言っても良い。
先に結論を言うと、管理人は、この戦いは実在の戦いだと考えている。その検証のために、上野城攻めに関する記述が出てくる文献を列挙したい。

「上野城(穂北)において戦いがあった」と明確に記述している文献、資料

@佐土原藩譜(佐土原藩:1880年頃)
   戦いの様子が詳細に記述されている。
A穂北(穂北史談会:1990年)
   穂北地方に、現代も語り継がれる伝承の紹介という形式で、戦いの様子が詳細に記述されている。
   戦いの成り行きは佐土原藩譜の内容とほぼ一致する。記述内容は佐土原藩譜の記述よりも詳しく、
   佐土原藩譜には記述されていない細かい事件や、上野城落城後の戦いなども記述されている。
B旧事集書くじあつめがき(佐土原藩:1810年頃)
   戦いの詳細は記述していないが、「戦いがあった」と明確に記述している。記述内容は以下の通り。
   「上野城軍記という古い一冊の記録が、穂北の野久尾に住む宇津宮という姓の百姓の家にある。
   上野城というのは、野久尾にある城である。この城には、伊東の残党の諸将と、
   大友宗麟の配下の武将が一人加わってたてこもったようである。城主は壱岐加賀守である。
   合戦は天正六年八月から九月までの間に行われた。攻める島津方の軍勢は、島津征久しまづゆきひさの配下の樺山、酒匂らや、
   その他伊集院中馬武蔵守らの武将で構成された。島津勢はつま(宮崎県西都市)の周辺2、3箇所に陣を張って戦い、
   この城をことごとく攻め滅ぼした。この合戦は、石ノ城の合戦と、高城の合戦の間にあったようである。
   佐土原藩には、古い記録としても、口伝の言い伝えとしても残っていない合戦である。」
   上記の記述「佐土原藩には記録がない」という点から、この旧事集書と、佐土原藩譜の記述は、
   穂北地方に伝えられていた「上野城軍記」をもとに記述したと考えられる。
   また、「穂北」で紹介されている伝承は、「上野城軍記」の内容を口伝えで伝えたものであると考えられる。
   しかし、その「上野城軍記」が現存しているかどうかは不明である。

上野城(穂北)における戦いを「うかがわせる」記述がある文献

C日州御発足日々記
   島津氏が日向国を占領した直後(占領3ヵ月後)にも、穂北地方が軍事的に緊張状態にあったことを記述している。
上野城地図 「天正六年三月二日(上野城が蜂起する半年前。石ノ城が蜂起する前日。)
穂北城、三納城に不穏な動きがあるという噂があったので、鎌田政年が軍勢を率いて両城へ詰め寄ったが、何事も起こらずに帰ってきた。」
「天正六年三月六日 穂北の境界にある、敵が支配している農村を占領することが決まった。
待ち(釣り)野伏を仕掛けるべく、都於郡に詰めていた島津方の軍勢と、地元の軽卒の合計2000騎程で出陣した。穂北の衆にも、多くの武装した者に協力させた。」
「天正六年三月七日 待ち(釣り)野伏の部隊が穂北から帰ってきた。」
「天正六年三月八日 穂北で島津方の為に働いて忠義を尽くした3人に対して所領を与えた。」
D義久公御譜中
   上野城の反乱の1ヶ月前に、島津方が上野城(穂北)における反乱を察知し、警戒していたことを記述している。
   これは、天正六年七月九日に、上井覚兼うわいさとかね伊集院忠棟いじゅういんただむねが連名で、宮原筑前守に出した手紙の記述である。
   七月九日とは、島津勢が3日前の石ノ城への総攻撃に失敗して、石ノ城からの退却を余儀なくされている時期である。
   文面は以下の通り。
   「このたび石ノ城攻めにおいて、貴殿(宮原筑前守)のご子息が大変ご苦労されているようですので、
   早くご子息を帰国させて、ご子息の代わりに貴殿が出陣してください。
   その理由は、伊肥州(伊集院 肥前守 久信か?)、頴娃、吉田の諸将も負傷のため帰国し、陣営が手薄だからです。
   穂北に不穏な動きもありますので、すぐにご出陣ください。くれぐれもご油断されませんように。」
   上野城(穂北)の反乱の1ヶ月前には、明らかに反乱の兆しが現れていたことがはっきり記述されている文献である。
上記Cの資料と合わせて考えると、以下のような仮説が成り立つ。
穂北地方には、島津氏による占領直後から高城合戦まで、一貫して島津氏への従属を拒む勢力が存在し、島津側との軍事的な緊張状態が継続していた。
E大友御合戦御日帳写
   天正六年九月二十九日(上野城落城の14日後)の記述に、以下の記述がある。
   「夜の8時頃、穂北ほきたより野辺という者が報告してきた内容によると以下の通り。
   穂北で反乱を起こしたものが多々いたが、そのうち島津方へ味方した3人は捉える必要はないということで、
   評議が決まった。」
上記の記述は、上野城攻めの戦後処理の記述と考えて間違いない。

結論 「上野城(穂北)の合戦はあった」と考えて差し支えない

以上を集約すると、「上野城(穂北)攻めがあった」とする根拠となる資料は、佐土原藩譜、穂北地方の伝承で、傍証資料としては大友御合戦御日帳写となる。
管理人は、この根拠から「上野城における戦いはあった」としても差し支えはないと考える。

佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間 リンク

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