その一 謎の上野城(穂北城)合戦
長倉洞雲斎ながくらどううんさい親子と二人の壱岐加賀守いきかがのかみ


検証【2】 上野城主 壱岐加賀守いきかがのかみ長倉洞雲斎ながくらどううんさいの謎

この上野城(穂北城)における合戦の9ヶ月前の上野城(穂北城)城主は、伊東義祐いとうよしすけをかくまって豊後に逃がした長倉洞雲斎ながくらどううんさいであり、壱岐加賀守いきかがのかみとは異なる。
この、伊東義祐を豊後に逃がした長倉洞雲斎がその後、侵攻してきた島津勢に攻め滅ぼされたのか、切腹させられたのか等を記録している文献は、(管理人は)今のところ発見できていない。
もしかすると、島津方の戦後処理として、穂北城主は壱岐加賀守に変更されたのかもしれないが、そのような文献も見当たらない。
よって、上野城攻め時点の穂北城の城主は今のところ分からない。
そもそも壱岐加賀守という人物はどのような人物なのか?

壱岐加賀守が登場する文献、伝承

@鹿児島県資料旧記雑録の中に収められている、「壱岐賀州年代記」という文献。
   その文献中に、天正二年十二月二十九日(→この上野城合戦の4年前)の出来事として、
   「長倉藤七殿が元服げんぷくされたというお知らせを受けた」という記述がある。
長倉藤七朗ながくらとうしちろうは、当時の穂北城主長倉洞雲斎ながくらどううんさいの息子であり、島津勢に追われて落ち延びて来た伊東義祐ら主従を、花園原まで迎えに行った男である。
穂北城主の長倉洞雲斎からこのような手紙をもらうような交友関係の中に、「壱岐加賀守」を名乗る人間が2人いるとは思えない。よって、この「壱岐賀州年代記」の作者は上野城で戦った壱岐加賀守と見てよいだろう。
A日向記
   この文献中に「壱岐加賀守」という人物が登場する。
   それによると、永禄五年六月(→この上野城合戦の16年前)に飫肥城における島津氏との戦いで戦死している。
死んだ人間が生き返って16年後に上野城で戦うわけはない。
管理人はこの文献に登場する壱岐加賀守は、上野城で戦った壱岐加賀守の父(先代)ではないかと推測する。
つまり、この壱岐家では代々当主が「加賀守」を名乗る習慣があったのかもしれない。たとえば父は壱岐[加賀守]太郎左衛門で、次の代は子供の壱岐[加賀守]一郎左衛門といった感じである。
代々の当主が同じ官職を自称することは当時としては珍しいことではない。
つまり、この飫肥城で戦死した「壱岐加賀守」の後を継いだ息子が、上野城で戦った「壱岐加賀守」と考えている。
B地域の伝承・民話
   穂北城がある現在の宮崎県西都さいと市の民話に以下のような伝承が残っている。
   現在も西都さいと市に現存する稚児ヶ池ちごがいけ(下図参照)が度々氾濫して人々を困らせていた。
   そのとき、ある子供(稚児)が志願して人柱となり、池の主である2匹の大蛇の霊を鎮めた。
   それからその池は稚児ヶ池と呼ばれるようになった。
上野城地図










<稚児ヶ池は地図の中央左寄り>
この話の中に登場する穂北城主が壱岐加賀守義道とされている。これは伊東祐立いとうすけはる(1400年代前半)の頃の話という。
伊東祐立については、佐土原城の歴史 伊東本家筋が日向国に下向し、田島氏を駆逐し、佐土原氏を名乗るを参照。

壱岐加賀守に関する推察

以下は、あくまで管理人の推察である。
上野城で戦った壱岐加賀守は、当時で何歳くらいだったのか?
ここで上野城合戦の記述を思い出すと、壱岐加賀守の妻(短刀で自決した)は18歳という記述があった。妻が18歳ということは、壱岐加賀守自身はこのとき19歳から22歳くらいだったのであろうかと推測できる。
ということは逆算すると、彼は3歳から6歳で、父を遠い飫肥おびの地の合戦でなくしたのであろうか?
その後、寂しい思いの数年を過ごして元服し、代々の当主の名である加賀守を継いだ。
島津氏が日向国を征服した後は、長倉洞雲斎に代わって上野城(穂北城)主となった。
しかし(父の仇である)島津氏に対する憎しみは抑えきれず、大友氏の日向侵攻に呼応して蜂起したのであろうか?
先ほど紹介した「壱岐賀州年代記」の記述であるが、天正二年であった。ということは、この「壱岐賀州年代記」を書いていたのは、15歳から18歳くらいの頃?!ということになる。そんなに若くして「壱岐賀州年代記」を書いていたのか・・・?
今後調査する予定だが、この「壱岐賀州年代記」の記述年代を調べてみようと思う。つまり、今回想定した彼の年齢と合致するかどうかを検証するのである。

ちなみに「壱岐賀州年代記」内部の記述は、言葉使いが非常に丁寧で、登場する人物すべて(当時敵であった島津氏の人間の名前にも)に「殿」をつけている。自分が年少だったからか、丁寧な人だったからかはわからないが・・・。
ともかく、この「壱岐賀州年代記」はきちんと再調査する必要性がある。

結論1 壱岐加賀守は穂北地方の土着の有力者の一人

以上のような状況証拠や推測から判断するに、壱岐加賀守は穂北城主の長倉洞雲斎とも親交があった、穂北地方の有力者であると考えている。
また、島津氏に対する個人的な恨みも強く、天正六年に日向に侵攻してきた島津氏に対して、心服できない感情を十分に持っていたと考えられる。
更に、彼らの不穏な動きは、天正六年三月の時点で島津方からマークされるようになっていた。<上野(穂北)城合戦は実在の合戦か?参照>

結論2 合戦当時の上野城(穂北城)主は、元は伊東方だった武将である

壱岐加賀守が天正六年八月の時点で、本当に穂北城主だったかは分からない。そもそもその前の城主である長倉洞雲斎と藤七郎がどうなったのかも分からない。
ただし、次のことは言える。
天正六年三月の時点で、「不穏な動きあり」ということで、島津方の武将が軍勢を引き連れて穂北城に詰め寄ったとすると、少なくとも当時の穂北城主は、島津氏恩顧おんこの武将ではないと考えられる。伊東の旧臣か、それまでは島津家に従っていなかった人間であると考えられる。

佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間 リンク

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