その一 謎の上野城(穂北城)合戦
上野城、くま城と上下の城


検証【3】 城の記述「上野城」と「隈城」

上野城の戦いの記述には、聞きなれない城の名前が出てくる。
穂北城を上野城と記述していることもそうなのだが、「隈城」、「上下の城」という城の名前がそうである。
最後に、これらの城の名前について検証する。

穂北城の縄張りと「上野城」の呼称

そもそも、穂北城といえば、伊東48外城の一つに数えられる城で、大小6つの曲輪くるわ構造を持つ堅固な城である。
以下に穂北城の縄張りを示す。(参考資料:穂北城址 宮崎県教育委員会)
ここで注意すべき点が一つある。
それは、南九州特有の習慣として、城の曲輪くるわ(本丸、二の丸、三の丸といった、城を構成する区画)を「城」と呼ぶ習慣があるということだ。
たとえば、南九州以外では本丸、二の丸、三の丸と呼ばれる城の区画が、本城、二の城、三の城と呼ばれる感じである。
つまり、穂北城は6つの曲輪くるわで構成されるが、@曲輪は榎ノ木城、B曲輪は中ノ城、C曲輪は東ノ城と呼ばれる。(その他の曲輪の名前は分かっていない)
これらの「城」付けで呼ばれているものは、もちろん6つの曲輪の中の一つである。いわゆる一般に「城」という呼称が意味する「独立した城」ではない。繰り返すが南九州の城を語る際には、この点が要注意である。
これは南九州以外であれば、@曲輪は榎ノ木丸、B曲輪は中ノ丸、C曲輪は東ノ丸と呼ばれるはずである。

西都市埋蔵文化財発掘調査報告書24集 穂北城址には、
E曲輪が「西ノ城」と呼ばれていた可能性が示唆されている。
穂北城は北面(上方向)のみが平野に接しており、残りの3方向は断崖や斜面に守られている。
実は、この穂北城の北方向は「上野」という地名の地域である。
また、この穂北城の北面は、「平地と台地が交差する”野久尾”状の地形」とも判断できるので、旧事集書の「上野城とは野久尾に建っている城である」という記述とも一致する。
これは管理人の推測だが、名前の分からないD曲輪が「上野城」と呼ばれていたのかもしれない。

結論1 上野城とはD曲輪のことか?

私としては、名前の分からないD曲輪が「上野城」と呼ばれていたのではと推測する。
その推測が正しいとすると、島津勢は先ずこのD曲輪(上野城?)において戦闘を行い、D曲輪(上野城?)が焼け落ちて陥落。壱岐加賀守は討死。
更にD曲輪(上野城)が陥落して、島津勢が城内に殺到すると、城兵は抗戦の無駄を悟り降伏し、戦闘が終了した。
よって、上野城における合戦と呼ばれているのではないか・・・。

補足 「月見をしていた、城の南のあずまや」は曲輪Aではないか?

ちなみに、穂北城の南方向(下方向)に斜面を下っていくと、一ツ瀬川にぶつかり、そこを渡ると島津勢の陣があった。
思い出していただきたい。上野城をめぐる戦いの際(歌を矢文でやり取りした日)に、「琴を奏で、月見をしていた、城の南のあずまや」の記述があった。それは恐らくA曲輪の南端部分であろうと考えられる。
それはA曲輪には土塁がなく、本丸と思われる@曲輪の更に奥にあり、木の橋で行き来していることから、居住スペース(非戦闘用の曲輪)のような役割と考えられるからである。(同じような指摘が西都市埋蔵文化財発掘調査報告書24集 穂北城址にも見られる)
さらに@A曲輪の南側は絶壁なので、展望台のように見晴らしも良く、月見をするには絶好のスポットである。さぞきれいな月が見えていただろうと考えられる。

「隈城」とは?

現在、穂北地域で、「くま城」という名前の城は認知されていない。
そもそも”隈”とは川岸とか、川に近い部分を指す言葉である。事実、文献では隈城落城後に、城兵が川で水死したという記述が見られる。
よって、隈城は川沿いにあった城と見て差し支えないと考える。
そうすると、「隈城は穂北城の中の曲輪の一つ」という仮説が消える。穂北城は台地の上にあり、川からは距離がありすぎる。
本編中に掲載した合戦の地図では隈城の位置を、一ツ瀬川ひとつせがわ沿いの東岸で、かつ穂北城が建つ茶臼原ちゃうすばるに登っていく道がある辺りと想定している。
戦闘の記述を見ると、島津勢は一ツ瀬川を渡ることが出来ずに、長期間一ツ瀬川西岸に釘付けになっていたようである。
そこで私は、隈城が一ツ瀬川の渡り場かその近くにあり、島津勢の渡河を阻んでいたのではないかと推測したのである。
現代でもこの地域の一ツ瀬川東岸の川沿いには、かつて城か砦があったことを思わせる地名が多く残っている。(囲、城平など)

結論2 隈城とは一ツ瀬川沿い東岸にあった城か砦である

上記のことを勘案すると、隈城とは一ツ瀬川沿いの東岸にあった城か砦と考えられる。
恐らくは、一ツ瀬川西岸の平地から一ツ瀬川を渡って、茶臼原に登るための道の登り口を押さえる役目を持った城(穂北城の支城のような役割)であろうと考えられる。

「上下の城」とは?

近隣の城である、富田とんだ城(宮崎県児湯郡新富町)が上ノ城、付近の城が下ノ城と呼ばれることがある(これも曲輪を城と呼んでいるだけかもしれない)が、今回の記述はこの城のことではない。
上下と呼ぶからには、川の上流・下流、または山の上・下が考えられる。

結論3 上下の城とは上野城と隈城のことである

私は、この「上下の城」は台地の上にある上野城(穂北城)と、台地の下の、一ツ瀬川沿い東岸にあった隈城を指して「上下の城」と表現したのではないかと考えている。


今後の対応

現地調査をする

野久尾という地名を探してみる。

壱岐賀州年代記を再調査

今回見た旧書雑録は年代別に収められていたものだったので、「壱岐賀州年代記」を通読できる資料ではなかった。
次は「壱岐賀州年代記」を通読できる資料を探して、通読してみる。

佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間 リンク

日向国史重箱の隅