島津氏の佐土原城への入城と天守台の造営

島津氏が佐土原に来る(前島津)

全盛を誇った伊東氏だったが、それは長く続かなかった。
永禄十二年(1569)に伊東義祐から家督を継いでいた伊東義益いとうよしますが岩崎の稲荷に滞在中に急死する。
非常に人望の厚かった若い当主を失ったことにより、明るく見えていた伊東家の将来に不吉の兆しが見え始めた。
家督は伊東義益の息子である3歳の慶龍丸(後の伊東義賢よしかた)が継ぎ、祖父である伊東義祐が後見人となった。
その後見人である伊東義祐の指図により、元亀三年(1572)、伊東氏は一族の武将を伴って島津氏の領地である加久藤城(宮崎県えびの市)を攻めた。いわゆる木崎原の戦いである。
兵士の数では島津勢を圧倒する伊東勢であったが、島津義弘しまづよしひろらの奇襲作戦に破れ、参戦していた一族の主だった武将が数多く戦死するという大敗北を喫した。
この大敗北により、伊東氏(ひいては伊東義祐)の権威は失墜し、伊東氏配下の諸将は次第に伊東義祐から離反していくこととなる。
その後天正五年(1577)には、島津氏に日向国全域を奪われて、伊東義祐らは豊後へ逃げ落ち、南之城みなみのしろ(佐土原城)も島津氏の支配下に入った。(この頃の様子は、日向国合戦記—高城の合戦(天正六年)伊東義祐 政道を怠り、民や諸将 大いに嘆くに詳しく記述している。)
当時の日向国内は、島津氏の支配下に入ってはいたが、まだ伊東の残党との小規模な戦闘が続いていたようである。
島津氏は、配下の諸将に命令して、交代で薩摩や大隈から軍勢を率いて日向国に遠征し、日向国に駐屯ちゅうとん(軍隊が出先に長期間滞在すること)させていたようである。
このような情勢であった天正六年における南之城(佐土原城)の役割は、島津方の諸将が、交代で薩摩・大隈から遠征してきて駐屯する城となっていたようである。
その年天正六年(1578)に大友氏が日向国侵攻(耳川の合戦・高城の合戦)を行ったが、島津氏はこれを撃退した。これにより島津氏は、遂に佐土原を含む日向国全域を完全に掌握した。
このように島津氏が日向国を完全に掌握した後は、南之城(佐土原城)は前線の駐屯地ちゅうとんちとしての役割ではなく、日向国を統治する中心人物が入る城となった。つまり、当時の島津家当主 島津義久しまづよしひさの腹違いの末弟である、島津家久しまづいえひさが城主となったのである。
佐土原では、この島津家久の一族を「前島津まえしまづ」と呼んでいる。これは、関ヶ原合戦後に初代佐土原藩主として入城してくる別系統の島津一族、島津以久しまづゆきひさ(征久とも書く)の一族と区別するためである。
(前島津による佐土原城の支配)
ちなみに、この当時も呼称としては佐土原城であったし、城構えも伊東義祐が築いた鶴松山南之城のままである。

豊臣秀吉の九州征伐

天正十五年(1587)、豊臣秀吉は九州に侵攻した。さしもの島津氏も、数十万という豊臣秀吉の軍勢には敗北し、豊臣秀吉に降伏した。
その直後、南之城(佐土原城)の城主である島津家久が急死する。この死因については、現在でもいろいろな憶測が飛んでおり、大きな謎の一つとなっている。(豊臣方の暗殺、島津方の暗殺、島津方から死ぬように命じられた、単なる病死、など)
この事件については文献が十分に存在せず、どの説も推測の域を出ないのであるが、
私は、「豊臣秀長による毒殺」という線も捨てがたいと考えている。
死因はともかく、島津家久の急死により、南之城(佐土原城)は島津家久の息子である島津豊久しまづとよひさが城主となった。

関ヶ原の合戦 島津氏(前島津)が佐土原から去る

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、佐土原城主の島津豊久は、伯父である島津義弘しまづよしひろに従って西軍として参戦した。
西軍となった南之城(佐土原城)は、城主が不在の隙をつかれ、日向国内で東軍に味方していた伊東家の家臣で、清武きよたけ城主の稲津重政いなづしげまさの軍勢に攻められたが、留守を守る家臣の知略で何とかこれを撃退している。
関ヶ原において西軍が敗れると、島津豊久は伯父である島津義弘を逃がすために身代わりとなって戦死した。
「城主が徳川家に反抗して戦死した」という形になってしまった佐土原城および一帯の領地は、徳川家康の家臣、庄田三太夫が一時的に預かるという形になった。つまり、佐土原は、徳川家により没収されたのである。
その後、佐土原に封じられていた島津豊久の一族及び家臣は、鹿児島の島津本家のはからいにより、鹿児島の永吉ながよしに封じられた。
島津家久・豊久親子の墓が、宮崎県の佐土原と鹿児島県の永吉にあるのは、そういった経緯が関係している。

島津以久しまづゆきひさが初代佐土原藩主として入城

その後、島津氏の必死の外交交渉により、徳川家は佐土原を島津氏に返した。
慶長八年(1603)に、島津義久・義弘・歳久・家久兄弟の従兄弟である、島津以久しまづゆきひさ(島津征久とも書く)が佐土原藩の初代藩主に任命され、南之城(佐土原城)に入城した。
(佐土原藩の成立)
南之城(佐土原城)は、島津以久の時代までは伊東義祐が築いたままの城構えであったし、本拠地も南之城の部分であった。
現に、佐土原城に入城した島津以久は、南之城に居住している。

二代藩主 島津忠興しまづただおきによる天守台の造営

慶長十六年から17年(1611〜1612年)にかけて、二代藩主島津忠興によって、南之城の補修と、南之城の北側の尾根に本丸と殿司丸でんしまると呼ばれる曲輪が新しく造営された。
この新たに造営した殿司丸に、二重の屋根と金箔の鯱瓦しゃちがわらを持つ壮麗な天守が建てられた。
このような天守を持つ城は、南九州では佐土原城ただひとつであり、おそらく日向灘を航行する船からも山の上に立つ壮麗な天守台が見えていたと思われる。
この大増築によって鶴松山かくしょうざんの全域が城塞化されたことより、城の名前は、山全体の名前を取って鶴松城かくしょうじょうと改められた。
ただし、一般には佐土原城という呼称で呼ばれていた。
本丸と殿司丸が造営された後も、藩主忠興は南之城に入城していることから、佐土原城(鶴松城)の本拠地は相変わらず南之城であった。
(佐土原城[鶴松城]の完成) 佐土原城縄張5

佐土原城本丸

















現在の佐土原城。(南之城から本丸へ続く道)
許可を得て実際に足を踏み入れても、かなりの要塞であることが分かる。
現在はうっそうとした竹林となっている

佐土原城門














城内の門跡。左側の壁に開いている穴が、門の横木を通す穴である。
左右両方の壁に穴があいており、そこに横木を通して門の上部としたと考えられる。
おそらく、壁の下のほうにたまっている竹の枯れ葉をそっとどけると門柱の跡があるはずである。
が、勝手に掘ったりしたら絶対駄目ですよ!!

佐土原城本丸











佐土原城本丸跡。
山の頂を切り開いた平地となっている。


以前は2006年1月時点での最新の学説を掲載していたが、
2011年7月に出版された「佐土原城 天守を持った山城の歴史」(鉱脈社刊 末永和孝著)を参考に大幅に修正した。

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