@今年は歩くぞ!妙円寺詣り

その一:立てよ佐土原衆!いざ妙円寺へ!

早いもので、そろそろ妙円寺詣りの季節です。今年は見るだけではなくてキチンと歩こうと思います。
多分、佐土原からの参加者は一人だけだろうけど・・・「最期の一人まで戦います!(笑)」

質問1 妙円寺みょうえんじ詣りって何?

解答

鹿児島の方には怒られそうですが、宮崎の方、鹿児島県外の方のために妙円寺詣りの説明をします。
妙円寺詣りとは、毎年十月に鹿児島県日置市(旧伊集院町)を中心として行われる、由緒正しい伝統行事です。
行事の中心は、島津義弘しまづよしひろ公が祭られている徳重とくしげ神社(明治の廃仏毀釈で妙円寺から徳重とくしげ神社となる)です。
この行事は、関ヶ原の合戦の記憶を後世に伝えるために、江戸時代に始まった薩摩藩の行事です。
薩摩武士達は、毎年この日になると、甲冑を着て、鹿児島市から妙円寺までの20キロ以上を夜を徹して歩き、早朝に妙円寺に集まったそうです。
また、彼らはそのまますぐに鹿児島まで歩いて帰って、その日は通常通り公務をこなしたとも言われています。(何と屈強な!)
明治惟新の立役者である西郷隆盛や大久保利通もこの妙円寺詣りに参加していたということです。
また、妙円寺までの道中に歌われる「妙円寺詣りの歌」もあり、関が原の合戦場から鹿児島まで退却する島津義弘公主従の苦難が歌われています。

質問2 なんで佐土原の人間がその妙円寺詣りに参加するの?

解答 当時の佐土原城主の島津豊久公も関係しているからです

実は関が原の合戦には、島津義弘公と共に当時の佐土原城主島津豊久しまづとよひさ公も島津勢の副将として参戦していたのです。
皆さんご存知のように、西軍は敗れたのですが、破れて敵に背中を見せて敗走する西軍の諸将の中にあって、島津勢だけは違っていました。
島津勢は、他の西軍の諸将とは逆に、前面の東軍の大軍勢に向かって突撃して、東軍の中央を突破して関が原の戦場を離脱し、鹿児島まで退却したのです。この退却劇は「島津の退ぐち」と呼ばれ、後世に語り継がれる退却劇となっています。
もちろん、その退却中に数多くの武将、兵卒が島津義弘公を逃がすために犠牲となりました。
その一人が当時の佐土原城主の島津豊久公です。豊久公は東軍の追撃を食い止めるために烏頭坂うづざかにとどまって奮戦し、遂に討死してしまいます。この様子は「妙円寺詣りの歌」にも歌われています。
げど倒せど敵兵の 重なり来たる烏頭坂 たばしる矢玉やだまおと凄く 危機は刻々迫るなり
 むくろも染みて猩々緋しょうじょうひ 御盾みたてとなりし豊久を 見るや敵兵且つ勇み むらがり寄する足速し』
この関ヶ原の詳しい様子は日向守関ヶ原訪問記をご覧ください

妙円寺詣りは、島津義弘公にお参りする行事ですが、その身代わりとなって戦死した島津豊久公のお膝元の佐土原の人間が参加しても良いのでは?と思って参加しようと思っています。
もちろん次の日には、佐土原にある豊久公のお墓にもお参りするつもりです・・・。
また後日報告します。

佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間 リンク

日向守つれづれ 今年は歩くぞ妙円寺詣り