まずは関ヶ原合戦が始まる前の両軍の布陣は下図の通り。
図の左側(西側)の山の斜面に沿って西軍(青)が陣取っています。
島津義弘・島津豊久は少ない軍勢(1,000名)ながら、石田三成(6,000名)の前面に、宇喜多秀家(17,000名)小西行長(4,000名)らと並んで陣取っています。1,000名で最前線に居ます。凄いですね。
島津勢の前面の敵は、加藤嘉明(3,000名)・筒井定次(2,800名)・加藤嘉明(3,000名)・井伊直政(3,600名)・松平忠吉(3,000名)等です。
東軍(赤)は、図の真ん中の平地に陣取っています。しかし、更に右(東側)には別の西軍の軍勢が陣取っています。
図の左側の西軍の配置は、右側から来る敵を、両手を広げて受け止めるような形(ひらがなの"く"の字)に見えますね。
この陣形は、鳥のツルが頭を右にして翼を広げたような形に見えることから、『鶴翼』と呼ばれる陣形です。
一方、東軍は西軍の『鶴翼』の陣形にすっぽりと包まれるような配置になっています。さらに右側(後方)を西軍の軍勢にふさがれ、完全に包囲されたような状態です。
この両軍の配置だけを見ると、西軍が必ず勝ちそうなものですが、歴史は東軍の勝ちでしたね。何故でしょう?
理由@ 図の左下、西軍の鶴翼の陣形の先端部分に居た小早川秀秋が、東軍に寝返り(裏切り)、図の上の方向に向かって西軍を攻めました。
理由A 図の右側、東軍の背後を攻撃するはずの毛利秀元が戦いに参加しません(出来ません)でした。
西軍に居ながら東軍に通じていた吉川広家が、戦闘に参加しようとして南宮山を下ろうとした毛利秀元の軍勢を"通せんぼ"したんですね。
これらの裏切り工作を事前にやっていたとはいえ、このような敵に包囲されるような危険な場所に自分から入っていく徳川家康は肝が据わってますねぇ。
黒田長政(東軍)の陣所跡
黒田長政(東軍)の陣所跡の石碑
黒田長政の陣所から東軍・西軍の両軍の最前線を見渡す。
←の解説と照らし合わせてみてみると、両軍の衝突点が手に取るように見える場所である。