小早川秀秋、小川・脇坂らの寝返り(裏切りのこと)によって、西軍総崩れとなった時点の配置図です。
西軍の各隊は敗走しています。西軍の中で何とか踏みとどまっているのは島津義弘・島津豊久だけですね・・・。
東軍の各部隊はここぞとばかりに前進してきています。後方では、徳川家康の本体(30,000名)も前進してきています。
島津義弘・島津豊久の周りには、敗走する西軍の将兵とその首を狙う東軍の将兵が入り乱れて、大混乱状態だったと考えられます。(ですので東軍の諸将の配置も幾分か推測です)
おびただしい敵軍の中に取り残された島津勢。ここで島津義弘は、家臣と有名なやり取りを行います。
【島津義弘】『敵は何方が猛勢か?』
【家臣】 『東よりの敵、もってのほか猛勢』
【島津義弘】『その猛勢の中に相掛けよ(攻めかかれ)』
山本博文 著 島津義弘の賭け より
かくして、島津勢による関ヶ原敵中突破が始まりました。
島津の退き口の経路図です。(これも幾分か推測が入ります)
島津勢は鋒矢(矢印のような形)の陣形で、前面に配置した鉄砲を撃ちながら前進し始めます。
これはいわゆる『穿ち抜き』と呼ばれる島津勢独特の戦法で、
敵の一点に攻撃を集中して、木の板にキリで穴を開けるように、敵陣の一点を切り崩して穴を開け、突破する戦法です。
こうして前面の、敵味方入り乱れる大混乱状態の戦場を突破し、徳川家康の本陣をかすめて伊勢路へ進路をとります。
伊勢路へ入る前に、島津勢は東軍の福島正則の軍勢と数メートルの距離まで接近しますが、福島勢は決死の島津勢との戦闘を避け、攻撃をせずに傍観します。
これは、『すでに決着のついた戦いで、これ以上の戦力の消耗は無用』という、福島正則のプロフェッショナル軍人としての冷静な判断だと思います。彼もまた、まだまだ戦国乱世が続くと思っていたでしょうからね。
しかし、そうも言っていられないのが、徳川家康の直属の配下の武将である井伊直政、松平忠吉、本多忠勝です。自分の主君の本陣の前を易々と突破され、主君(上司)の目の前でメンツを潰されたのですから、それは熱くなります。
彼らは必死に島津勢を追撃します。
この追撃部隊を阻止すべく、退却する島津義弘から離れて烏頭坂にて東軍の追撃部隊を迎撃したのが、佐土原城主の島津豊久です。彼はわずかな手勢で猛然と立ち向かい、死闘の後に討死にします。
また、同じように阿多長寿院盛淳も東軍の追撃部隊を迎撃します。
島津義弘と年齢が近かった阿多長寿院盛淳は、島津義弘の陣羽織を着て『我こそは島津義弘』と名乗りながら敵中に斬り込んで討死にしました。
彼らの奮戦により、追撃部隊の井伊直政が銃撃を受け負傷落馬、松平忠吉も銃撃され落馬するという事態になります。
直属の精鋭部隊を率いる武将が、楽勝であるはずの追撃戦で次々に負傷する異常事態を受けて、徳川家康も、先ほどの福島正則と同様の判断を行います。
徳川家康の命令は『追撃中止』です。
彼もプロフェッショナルの軍人ですね。怖いくらいに冷静です。
これにより、島津義弘は何とか退却する時間を稼ぐことが出来、無事に大阪に逃げ延びます。
大阪での彼らのエピソードは最後に紹介します。
島津豊久を葬った瑠璃光寺(上石津町上多良樫原)
島津豊久のお墓の入り口
しっかり整備されています。佐土原の天昌寺の看板の整備具合が申し訳ない程の立派な看板です。
石碑
石碑がいくつか立てられています。この地域では、佐土原の人間がびっくりするほど島津豊久の人気が絶大です。
島津豊久の墓
日向国(宮崎県)佐土原から、京都で困っていた伯父の島津義弘の下へ手弁当で駆けつけ、
前のページで掲載した関ヶ原の小池の陣地から敵中突破し、
さらに伯父を逃がすために勇戦し討死した猛将がここに眠っています。
父である島津家久(中務)にも劣らない猛将です。