日向守関ヶ原訪問記

その五 阿多長寿院盛淳あたちょうじゅいんもりあつの墓

琳光寺(大垣市石津町牧田)にある、阿多長寿院盛淳あたちょうじゅいんもりあつを供養する五輪塔
江戸時代中期の宝暦年間に治水工事のためにこの地にやって来た薩摩藩士が作ったと言われています。

石碑
阿多長寿院盛淳の子孫によって大正時代に建てられた石碑。

大阪に逃げ延びた島津義弘は・・・

大阪城には、西軍諸将の妻子が人質として居ました。
もちろん島津家も例外ではなく、島津義弘の妻、島津義弘の息子で、当時の島津家当主の島津忠恒の妻が人質として大阪城に居ました。
西軍が敗れたからには、今すぐ薩摩(鹿児島)に帰って徳川家との難しい外交交渉に備えなければなりません。そのときに大阪に人質をとられていては出来る交渉も出来なくなってしまいます。
島津義弘としては、何としても大阪城にいる自分の妻と息子の妻を薩摩につれて帰らなければならなかったのです。
ここで島津義弘は一計を案じます。
関ヶ原合戦の勝敗の情報くらいは大阪城には伝わっているはず。しかし西軍が総崩れになったからには詳しい情報は伝わっていないはず・・・
島津義弘は大阪城へ使者を遣わして、涙ながらにこう訴えさせます。
『わが主君島津義弘は関ヶ原にて秀頼様の為に必死に働きましたが、力及ばず討死しました。島津義弘の葬儀を薩摩で行いたいので、どうか島津義弘の妻と息子の妻に、薩摩に帰る許可をください』
しかして2人の妻には薩摩へ帰る許可が下り、島津義弘は自分の妻と息子の妻を大阪城から救出して薩摩に帰ったのでした。
ちなみに、というかついでに、財部たからべ(現在の高鍋)の秋月種長の妻も連れて帰ってます・・・。
大阪から船で出発した島津義弘は、日向(宮崎県)細島に上陸し、翌日には財部(高鍋)に到着、翌日には佐土原に入り、島津豊久の討死を豊久の母と妻に告げました。

佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間 リンク

日向守つれづれ 島津の退き口